お薦めの本

2009年5月30日 (土)

フツーの子の思春期

非常によい本です。スクールカウンセラーとして、数多くの子どもたちから、きちんと話を聞き続けてきた実践のエッセンスを読むことができます。内容が実践に基づいているだけではなく、かなり高度に専門的な理論や考察が、日常的で平易な言葉で書かれています。

スクールカウンセラーという子どもたちの話しに耳を傾ける存在が、学校という日常の場に居続けるということの確かな価値を感じさせてくれる本です。高度に専門的な理解の枠組みも持ちつつ、日常の場で援助を行うという一見矛盾した営みを、丁寧に成立させていくことが、大きな価値を生み出すことを改めて実感させてくれました。

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2009年2月27日 (金)

解決指向フォーカシング療法


読みたいです。勝手に中身を想像しています。
ソリューションもフェルトセンスも、自分(利用者)自身の中にあるところが共通点かもしれません。その人の中にあるものを大切にすることが共通しているかもしれません。

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2008年12月26日 (金)

集中講義・精神分析 上 (1) 藤山 直樹 (著)

今読んでいます。第Ⅰ部「精神分析とは何か」を読み終えたところです。ずしっと、お腹にたまってくるような、感覚が味わえます。いっぺんにざーっと読むことはできません。自分の、実践の記憶が色々と刺激を受けてよみがえってくるような感じです。

読んでいる最中ですが、読んでいて、羨望を感じます。精神分析という文化や、その文化を生きている著者に対してです。ある意味、梨園やに対するあこがれや尊敬、羨望と近いような感覚のような気がします。伝統を持ち独特で濃密な文化の中を生き抜いている存在(精神分析の伝統は100年をどうにか超える程度ですが、(広い意味での)心理臨床の世界では、最も長い伝統を持っています。)に対する、憧れと羨望です。

本書に限らず、精神分析そのものについては、言葉を使って説明することは不可能なのだと思います。この本を読んで何かを理解したような気がしたとしても、おそらく、小さな窓から、精神分析の影を垣間見ているようなものでしょう。しかし、それであっても、この本に書かれていることは、毎日の日常生活の中でおぼろげながら感じていること、日々の臨床実践の中で感じていることを、思い出させてくれます。精神分析という装置(場・仕組み)は、普段の日常生活の中で生じている人と人との相互作用を、(分析空間以外の要因が排除されることによって)わかりやすく拡大して体験させてくれるのかもしれないと、思いました。「もちこたえる」ことの大切さを感じましたが、精神分析の体験は分析家と被分析者に相当の負担を強いるだろうし、きちんとした設定・枠組みなくしては、「もちこたえる」こと自体が不可能だと感じました。

非常におもしろいのですが、先に読み進める、体力(気力ではなく、体力のような気がします)が今はありません。それで、感想を書いています。しかし、(私は分析空間に身を置いているわけではありませんが、)感想を書くことも、アクティングアウトような気がします。

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2008年7月11日 (金)

心が元気になる本(大河原美以さん監修)






 私のもっとも尊敬する心理臨床家(カウンセラー)の1人である大河原美以さん(東京学芸大学教授)が監修された「心が元気になる本」をやっと手に入れました。この本は、子どもたちが自分で1人で読んだり、大人と一緒に読んで、自分自身の嫌な気持ちと上手につきあえるようになることを願って書かれているようです。

 早速、読んでみました。

 はやと(小5)とみさき(中2)の2人が、スクールカウンセラーの山田先生と一緒に、自分の中に生じるイライラやクヨクヨという嫌な気持ちについて考えていくおはなしになっています。3巻になると、登場人物が増えて、もう少し大きな問題に直面している子どもたちが登場してきます。

 ところどころに「先輩からのアドバイス」というコラムもあり、大学生が自分の過去の体験を振り返って書いた文章が紹介されています。その大学生の過去の自分自身や、同じような問題に直面している子どもたち(読者)がサポートされているように感じられました。

 心の仕組みや問題について説明している部分もありましたが、子どもたちが、SCの山田先生と相談室でやりとりをしている部分が印象にのこりました。その部分は、実際の会話形式で書かれています。子どもの立場に立てば、自分が実際にカウンセラーと話しているような感覚になり、自分自身の否定的な気持ちがサポートされているような感覚が生じてくるように思いました。また、SCの側にたって読めば、子どもにどんな風に関わればよいのかを実際に体験的に理解できるような気がします。

 全体的に、この本は心についての知識を得る本ではないという印象を受けました。読みすすめるうちに、本の登場人物の体験や気持ちの動きが自然に感じられ、それに呼応して、自分自身の気持ちも自然に動き出してくるような本だと思いました。そういう意味では、「感じる」本です。読み終わった後に、自分自身の中に生じるいやな気持ちも、そっと大切に守っていけるような気がしました。

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 早速、うちの長女(小5)が、「その本、何?」と興味を持ってきたので、長女に勧めてみました。すぐに、読み始めて、ドンドン読み進めていき、その日の内に読み終わってしまいました。そんなに一気に読むものでもないような気がしましたが、内容にすごく引きつけられたようでした。

 長女の感想を聞くと、「途中から、ちょっと、泣きそうになった」とのことでした。「ホッとする感じがした」とも付け加えてくれました。このコメントでは、どんな風に感じたか、何を考えたかということが、今ひとつ分からないのですが、本人なりに、色々と感じるところがあり、でも、十分には言語化できないのかもしれないなぁと思いました。

 「もう少し詳しく聴かせてほしい」とお願いをすると、さらに付け加えてくれました。「学級崩壊とか不登校とか、自分にはあんまり関係ないけど、いろんな気持ちのことが書いてあって、そのことで、自分もいろんな気持ちが湧いてきて、気持ちがいっぱいになってきたけど、最後には、ホッとする気持ちになった。」というようなことを話してくれました。

 子どもが1人で読んでも色々と感じたり考えたりすることはたくさんあると思う本です。子育て・子どもに関わる大人が読んでも、子どもの立場になって、子どもを理解するためにも役に立つように思いました。

 この本は、各学校のスクールカウンセラーの相談室に必要だと思います。遊びに来た子が、何気なく、手にとって読んでくれると、すごく良いと思います。また、小児科の待合室にぜひ置いてほしいと思います。


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2007年10月22日 (月)

子どもの否定的な感情にどう関わるか

自由来室活動の中で、他の子どものことについて、「あいつはキモイ、死んでほしい」などとスクールカウンセラーである私に言ってくる子どもがいます。こういった場合にどんな風にその子どもに関わればよいのでしょうか? 私なりに、考えていることを書きたいと思います。

常識的には、「そんなこと言ってはいけない」とか、「それはひどい言い方だ」とか言ってわからせようとすることが多いように思います。しかし、そんな風に指導しても、効果は薄いように感じます。言ってはいけないことだとか、ひどい言い方だとかいうことが分かっていないから、「あいつはキモイ、死んでほしい」などと言うわけではありません。分かっているにもかかわらず、そんな言い方をする場合がほとんどです。だから、「言ってはいけない」などと指導しても効果は薄いと思います。そして、もし私の前では、「キモイ」などと言わなくなったとしても、それは、本当に言わなくなったのではなくて、私のいないところでは同じように言っている可能性が高いと思います。それは、感情は自然に生じてしまうからです。

人と関わり合っていて、腹がたったり・いやな思いをしたりなど不快な感情が生じることは、ごく自然に誰にでも生じることです。「あいつはキモイ、死んでほしい」などという子どもは、そういう不快な感情を非常に強く感じているといえます。感情は、汗をかいたり、おなかがすいたりという生理現象と同じで自然に生じてきます。だから、「感じてはいけない」といっても効果はありません。自然に生じてくる感情を、よりよい形で表現したり消化することができなければ、他者への攻撃などという形で現れてしまうことは当然といえます。「言ってはいけない」と禁止してみても、生じてしまう不快な感情を良い方法で表現・消化して力を身につけることができなければ、「キモイ」などと攻撃するしかないでしょう。だから、「言ってはいけない」などと指導しても効果は薄いし、もしそれで、言わなくなったとしたら、見えないところで言っているという可能性が高いと思います。

私の場合、相談室で「あいつはキモイ、死んでほしい」と子どもが言った場合、ちょっと驚きつつ穏やかに「えっ? 激しいねぇ・・・。」などと、まず反応しそうです。その上で「キモイってどういうこと?」などと、穏やかに聴いてみたい気がします。子どもは「キモイ、キモイ!! とにかくちょーキモイ!」などと答えそうです。「えーそれじゃあ、なんかよく分からないから、どんなときにちょーキモイって思ったか教えてよ。」などと、聴いてみたいと思います。もし、子どもがそれに答えて、自分の体験を語ってくれればそれは、それでよりよい方向への第一歩だと思います。子どもの話をよく聞かせてもらうと、「あーなるほどねぇ。○○の時に、あなたは、すごくいやな思いをしたんだねぇ。」などと言葉が出てくるかけるかもしれません。もしかしたら、そのいやな気持ちを直接に相手にぶつけ攻撃することをしないで、相談室へやってきて、そのいやな気持ちを私にぶつけているのかもしれません。だから、いやな気持ちをどうしたのか(相手に言ったのかとか)を聞いてみます。その子なりにガマンして、相談室へやってきたのなら、そのことをきちんと評価して「じゃあ、そのときは、ひどいこと言ったりせず、ガマンしてたんだ。それって、すばらしい事じゃない?」などと投げかけてみたいと思います。もし、こんな風に関わることができたら、「あいつはキモイ、死んでほしい」などと言うやり方ではない、よりよい別の道へ進んでいく、小さな一歩だと考えて良いと思います。

しかし、「キモイってどういう事」と穏やかに聞いてみて、さらに「どんなときにちょーキモイって思ったか教えてよ。」と投げかけても、「とにかくキモイ」「もう全然キモイって感じ」などと繰り返し言うだけで、自分の体験に即して自分の気持ちを語ることができないような場合もあると思います。この場合は、感情面で未分化だったり混乱が強かったりという状態かもしれませんし、自分を客観的に見る力があまり育っていないのかもしれません。「よく分からないけど、とにかく、いやな気持ちでいっぱいなんだね」などと、「○○君がキモイ」ということについてではなく、そのこ自身の気持ちに焦点を当てて言葉を投げかけておきたいと思います。「○○君がキモイ」ということからなかなか具体的に自分を語ることができない場合には、この問題だけではなくて、色々な側面からその子ども自身の心の成長をはかっていく必要があるような気がします。

こういった関わりが原則だと思うのですが、多くの人にとっては、生ぬるいやり方のように思われるかもしれません。しかし、子どもの感情の成長、カウンセリングというアプローチの原則から考えても、こういったやり方は理にかなっていると思われます。

子どもの感情の成長については、大河原は、「子どもの感情が育つためには、①怖い悲しいなどのネガティブな感情がわき上がってくる場面で、②思いっきり自由に感情表出をして、③大人に「こわかったね」「かなしかったね」と抱きしめてもらえるという3つのプロセスを含んだコミュニケーションが日常的に保証されていればよいだけなのです。」(「子どもたちの感情を育てる教師のかかわり」 大河原美以 p32-33)と書いています。③では抱きしめるということがかかれていますが、家族ではないスクールカウンセラーが子どもを抱きしめることはできません。きちんと話を聞き、「すごくいやな思いをしたんだねぇ」「いやな気持ちでいっぱいになったんだねぇ」と応えることが、スクールカウンセラーにできることでしょう。

また、カウンセリングというアプローチの原則については、神田橋は、「つまり対話精神療法つねに、この二等辺三角形を保つよう努めているのである。常々この図形を思い浮かべるのが対話精神療法のコツである。」(「精神療法面接のコツ」 神田橋條治 p234-235)と書いています。
 「対話精神療法」という言葉が使われていますが、ここでは、カウンセリングとほとんど同義語だと考えてください。ここで触れたいのは、「対話精神療法」と「カウンセリング」の違いに関連する問題ではなくて、2つの共通する根っこの部分での問題だと思います。
 神田橋の言う二等辺三角形の関係とは、ある2人が、2人以外の人・物・事について、眺め・語るという関係だといえます。三角形の底辺の端にある2つの頂点は、2人の人です。そして、もう一つの頂点は、眺め・語る対象です。

自由来室活動で、「あいつはキモイ、死んでほしい」と子どもが言ったことに対して、「すごくいやな思いをしたんだねぇ」「いやな気持ちでいっぱいになったんだねぇ」と応えることは、大河原の言うような感情を育てる関わりと考えることができますし、神田橋の言うような二等辺三角形の関係を保つ関わりだと言えると思います。

ところで、裏サイトで「あいつはキモイ、死んでほしい」と書き込んでも、その事(自分の否定的な感情)について、一緒に眺め・語ってくれ、感情の表出を促し、気持ちを抱きしめてもらえることはありません。そうではなくて、大人のいる場面で、大人にぶつけてみることが、大切なことだと思います。「あいつはキモイ、死んでほしい」というような良くないやり方であったとしても、裏サイトに書き込むよりはよっぽど可能性が開かれてきます。

裏サイトを制限する事も大切なことですが、それだけで事態がよりよい方向に向かっていくとは期待できません。悪いことが起きないようにするだけではなくて、より良いことが生じていくことを大切にする必要があります。だから、裏サイトの制限に加えて、子どもが気兼ねせずに愚痴を言ったり、おしゃべりをしたりできるような場や関係をつくり、支えていく必要があると思います。


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2007年10月19日 (金)

否定的な感情

去年の秋頃は、いじめが原因と思われる自殺がニュースをにぎわしていました。
色々な対策が取られましたが、それからも、いじめの問題は、相変わらず多くの子どもたちを苦しめているとおもわれます。最近注目されているのは、学校裏サイトなどで、嫌がらせや悪口を書き込んでいじめをおこなうというものです。新聞記事などを見ると、サイトへの書き込みはかなり激しいものもあるようですが、個人を名指しして「キモイ」や「むかつく」というような書き込みもあるようです。

そのことから、ふと思い出したことがあります。
スクールカウンセラーの活動の一部として、相談室を休み時間や放課後に開放して、誰でも相談ではなくて、遊びやおしゃべりにきてもらうという活動をしていたことがあります。私はかってに「自由来室活動」と呼んでいました。なお、こういう活動は私は最近はやっていません。昔に比べて、時間数は変わらないのですが、担当する学校が増えてしまって、一つの学校にいる時間が少なくなりました。それで、子どもに直接関わるよりは、先生方とのコンサルテーションに時間を使うことが多くなってきました。また、援助ニーズの高い子どもたちへの直接的な関わりも増えてきたような気がします。そういうわけで、相談室を開放する自由来室活動は、最近やっていません。本当は、こういう活動こそ予防的な意味も大きいし必要だと思うのですが、目の前に見えている問題に関わるばかりで、手が回らないのです。

話はそれてしまいましたが、自由来室活動をやっていると、たくさんの子どもたちがやってきて、いろんな事をしゃべったり、訴えたりしていきます。そういう中にも、ほかの子どもについて、「うざい」とか、「きもい」とか私に言って来る子どもたちもいました。そう意味では、自由来室活動で子どもが私に「○○はキモイ。死んだ方がましだ」とか言ってくることと、裏サイトに同じような書き込みをすることは、どこかでつながっているなぁ、むしろ、基本的に同じだなぁと感じました。

人と関わっていて、いやな思いをしたり、苦しい思いをしたりすることは、ごく自然に生じてしまうことです。そういった否定的な感情をきちんと大切に扱っていくことが必要だと思います。

そういうことについて、大河原美以さんが、3冊目の本を書かれました。すばらしい本です。複数の子どもが絡み合う学校生活がストーリーとして再現されています。登場人物の何人かは自分の否定的な感情をきちんと大切にすることができず、他者を傷つけ、自分を傷つけるという形で、否定的感情が問題行動として現れてしまいます。子どもたち自身が、否定的な感情をきちんと大切にできるように、担任の先生がしっかり関わっていくプロセスが描かれています。
複数の子どもたちのストーリーは重なり合っています。そして、相互に影響しあいながら同時進行で、子どもたちへの関わりが進んでいきます。そういう点で、学校生活というリアルな日常でどのような関わりができるのかということに著者(大河原美以さん)が挑戦した本だと思います。スクールカウンセラーの立場として考えても、非常にリアルで説得力があります。そして、わかりやすく具体的で役に立つ本です。子どもの日常生活の中で、複数の子どもに関わっている人(学校の先生、学童保育の先生など)には本当にお薦めの本です。

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2006年11月28日 (火)

いじめと出席停止

教育再生会議のメンバーに品川裕香さんというジャーナリストがいます。その品川さんは、上に紹介した本を書いています。「人の痛みや気持ちなんか、全然わからない。わかりたくもない。そう平然と言い放っていた非行少年たちが自分の犯した罪を自覚し、猛省し、変わっていく…。教育者や親の視察・講演依頼が全国から殺到する宇治少年院。その指導の実態と関係者の思いが今、初めて明らかにされる。」と紹介されています。一気に読める本ですし、内容的にも非常にわかりやすく、しかも読んでいてこちらが元気になるような本です。この本で紹介されているような関わりが、広まってごく当たり前のことになってくれるといいなあと思います。

ところで、教育再生会議が、いじめの加害者を出席停止にしてはどうかと提言をしています。私は、これには基本的に賛成です。いままでは、いじめの被害を受けた子が学校に来られなくなってしまう現状がありましたが、加害者を出席停止にするということは、それとは正反対のことになります。いじめは、被害者が悪いのではなくて、加害者が悪い、ということを単なる言葉ではなく、態度や行動、仕組みとして明確にすることだと言えると思います。

さて、現実問題ですが、誰かを出席停止にするとなると、その子の保護者にはっきりと説明し、ある程度の納得が得られるようにしなければならないでしょう。その上で、出席停止にした子どもへの援助・指導が積極的に行われなければならないでしょう。ごくそれが当然だと思われます。宇治少年院で行われたような援助が学校現場で積極的に行われることに強く期待したいと思います。
しかし、現在の学校現場にそれをしっかりとやるだけの人的な余裕はないでしょう。制度だけをいじってもそこに資源を投資しなければなにも変わらないのです。

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2006年10月13日 (金)

共に眺める関係

「共に眺める関係」って、私が勝手に呼んでいるんです。「いわゆる三者関係です。でも、二者関係・三者関係って言ってもわかりにくいんで、「見つめ合う関係」(二者関係)、「共に眺める関係」(三者関係)といつも呼んでいます。

で、「共に眺める関係」っていうのは、専門用語で言う、共同注視ですね。何かを指さすとき、指そのものではなく、指が指している何かに注意を向けることができる能力を人間は、自然に発達させていきますね。それって、よく考えると、すごいことです。だれも、そういうことを具体的に教えてもらって、分かるようになるんじゃないんですね。
この本では、そのことについて、浮世絵の母子像から、論じているようです。すごく、おもしろそうです。

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2006年9月21日 (木)

スクールカウンセリングモデル100例―読み取る。支える。現場の工夫。

「スクールカウンセリングモデル100例―読み取る。支える。現場の工夫。」という本を読みました。

なかなかすごい本だと思います。100のケースが「モデル」として書かれています。きれい終結したケースばかりではなく児童・生徒が転校して、連絡が取れなくなったり、相談室に来談しなくなったりして、自然に消滅のようなケースもいくつも書かれています。、また、援助の場や援助の対象となる人が変わったりしているケースも多いです。いわゆるクリニックタイプの心理臨床とは全く異なる実践のリアルな雰囲気が伝わってきます。心理療法やカウンセリングという枠組みから援助を行うのではなく、子どもたちの生活の場の中で心理臨床のスタンスからできることを積み重ねてきたという実践の集積でしょう。

読後感が、いわゆるケースレポートとは違う感じで、そこがまたおもしろかったです。すっきりはっきりと何かが分かったような気になることがあまりできません。消化できないような、とらえどころがないような感じが残って、澱のように心に沈殿していくような気がします。この読後感は、「聊斎志異」という中国の妖怪物語を読んだときの読後感に共通する感じがありました。割り切れないものものを、切り捨てずに存在を認め受け入れていくというスタンスが共通なのかもしれません。それが生きていくことの現実なのかもしれないと思います。

どうも私は、きれい・はやい・うまいを売り物にして、人々の生きようとする営みをシステムとして眺める立場の本からは、「こうすれば簡単なのに、どうしてこうしないの?!」という蔑みの臭いを嗅ぎ取ってしまいます。また、正しさと効果を売り物にして、明確なターゲットを定めそこにきちんとした手続きで関わっていく立場の本からは「こうじゃなければ、それはおかしい」という非難の臭いを嗅ぎ取ってしまいます。この本は、そうではありません。もちろん、それらの本に書かれていることは、非常に勉強になり、役立つこともたくさんあります。きちんとそれらから多くを学ぶ必要があります。しかし、この本には、それらの本にはない、学校という場で生きているという実感をしっかりと支えてくれる感じがあります。
この本の中には、スクールカウンセラーとしての私ではなく、一人の親としての私の物語が、こっそりと紛れ込んでいても許されるのではないかと思いました・・・。




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2006年4月 6日 (木)

図書館の利用者証

図書館の利用者証というものを作りました。 出身大学の図書館で、卒業生は利用者証を作成できます。卒業を証明する書類と身 分証明書(免許証など)を見せるとすぐにつくってもらえます。外来者は、いちい ち住所とかを記入して入館し、外来者バッチをつけなくてはならいのですが、この 利用者証があると、図書館への入館がスムーズになります。本も借りられます。

ただし、リファレンスサービスで他館で所蔵されている論文をコピーしてもらった りというサービスは受けられないとのことです。リファレンスデスクで聞いてみる と、住んでる市町村の図書館で問い合わせてくれとのことでした。そういえば、ど こかの本にそれを実際に試した話が載っていたような気がします…。

記憶を手がかりに何冊か本をぱらぱらめくってみると見つけました。

です。79ぺーじあたりからそういうことが書いてあります。余談ですが、この本は、懇切丁寧に、研究の方法を書いてくれているので、勉強になり、 ためになりますね。

うーん。意外に使えるようで使えない利用者証ですね。
まあ、いちいち入館の時に 住所とか書かずにすむから良いとしますか…。
科目等履修生・聴講生とかになったら、文献を取り寄せてくれるのだろうか…。
知り合いの大学院生に頼んでみようか…(一番安直な方法だが)。

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2006年2月 2日 (木)

ブリーフセラピーの登竜門

お薦めの本です。
ブリーフセラピーについて楽しく分かりやすく、深く学べる本です。

ここからは、個人的な勝手な印象ですが…。
非常に「上手く」「良くできた」本です。
執筆者達のカウンセラーや研究者としての力量があってこそでしょう。
個人的には、この「上手く」「良くできた」感に何か引っかかりを感じてしまいます。
この本をけなすつもりではありません。
その引っかかりは何なのでしょうか?
きっと私自身の問題なのですが…。

とにかく良い本であることには間違いありません。
お勧めします。

なお、編著者の一人のブログによれば、続編「教師のためのブリーフセラピー」も出版に向けて動いているようです。こちらも期待大です。

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2006年1月19日 (木)

ちゃんと泣ける子に育てよう

お薦めの本を紹介します
「ちゃんと泣ける子に育てよう」という本です。まずタイトルが良いですね。「ちゃんと泣ける」って本当に大切です。

著者の大河原美以さんは、「怒りをコントロールできない子の理解と援助―教師と親のかかわり」という本を書いておられます。「怒りを…」の本も素晴らしいのですが、「ちゃんと泣ける子…」は、そこからすこし発展しつつ、主として保護者を対象に書かれています。
多くの人に読んでもらいたい本です。お勧めします。

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2005年12月20日 (火)

捨てないで抱え続けること

ナウシカが腕には赤ちゃんを抱え、背中には、銃をかつぎ、大きな背嚢を背負って歩いている絵があります。(記憶を元に書いていますので若干の間違いがあるかもしれません。)私は時々この絵を思い出します。

銃をかつぎ赤ん坊を抱える姿はある意味ショッキングなものかもしれません。しかし、これは矛盾と葛藤を抱えつつ、それでも歩いていこうとするナウシカの強さが表現されているように感じます。宮崎駿はこの絵を描いてナウシカがどういうことをしようとしているのかが分かった気がするというようなことをこの絵にコメントしていたように記憶しています。

話は変わりますが、最近、「ハウルの動く城」を見ました。ソフィーは出会った人をなぜかハウルの城まで連れて帰ってしまうのです。ハウルの命をねらっていた荒れ地の魔女や、ハウルと対立しているサリマン先生の犬のヒン、正体不明のかかしのカブです。みんな一癖も二癖もありそうなキャラクターばかりです。そこが、ソフィーのスゴサであり、事態に押しつぶされずに生き抜いていく力かもしれません。

そういえば、「千と千尋の神隠し」の千尋もなぜか、カオナシと坊ネズミとハエドリをつれて、銭婆婆のところまで出かけています。これらのキャラクターは千尋にとっては味方ではありません。色々と嫌な思いをさせられてきているのです。でも、千尋は彼らとの関係を切らずに受け入れているのです。

出会ったものを捨てずに受け入れ抱え続けていくことは、簡単なことではありません。それらは必ず対立や矛盾、葛藤をはらんでいます。それでも、それらを抱え続けていくことが生きていくことなのかもしれません。簡単なことではありませんね。

紹介したナウシカの絵はたぶんこの画集に含まれていると思います。

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2005年12月18日 (日)

「蟲師」

最近知りましたが面白いです。知っている人はとっくにご存じだったと思いますが。



「蟲」というのはすごく単純にいうと妖怪のような存在です。
まあ、物語の中では、きちんと定義・説明されていますが…。おおざっぱに言って妖怪でしょう。
でも妖怪だと思ってしまうと、この物語のおもしろさが半減してしまいます。
この物語のすごいところは、「蟲」という概念を作ったところでしょうね。

あとタイトルも良いですね。
「蟲師」というのは、なんだかパッとは意味が分かりません。画数も多くて漢字に雰囲気があります。
また、「むしし」という音は、全くそこから意味を想像させません。
「蟲士」だとバランスが悪いし、「虫士」だと軽いですね。

また、「師」だと先生という意味で、私の勝手な連想では、「できる人」ではなく「知っている人」です。
「蟲」の存在に比べて、「むしし」にできることの小ささを比べると「士」ではなく、「師」がピッタリのように感じます。

ところで、このお話には、悪人が出てこないような気がします。まだ3巻までしか読んでいませんが。

2巻の「筆の海」というお話と、「雨がくる虹がたつ」というお話が好きですね。

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2005年11月 2日 (水)

買った本

これから読みますが、
楽しみです。






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2005年10月26日 (水)

学校の心理的な危機

学校に関連する子どもの心理的な危機へのかかわりについていくつか本を読みました。
スクールカウンセラーを仕事としている以上避けて通れないというか、
避けて通ってはならないテーマですね。
特にお勧めな本をご紹介します。






この2冊は、基本的な勉強として必要だと思います。
概説と事例から、一通りの知識を得られる本です。実際の危機に直面する前に、こういう本をしっかりと読んでおくことが必要だと思います。大まかなイメージづくりに非常に役立つと思います。ただ危機に直面してから読むのでは間に合わないでしょう。

これは、学校に1冊常備しておきたい本です。これは、厚生労働省研究班によるマニュアルです。「自然災害」「人質事件」「性暴力被害」などの事態に応じてコンパクトに重要な事項がまとめられています。危機に直面した際に、手順や視点に抜かりがないかどうか確認したりすることができます。もちろん、これも、事前にしっかり読み込んでおくことが必要だと思います。

もっとも、危機への対処は、本を読んでおくだけではなく、事前に準備しておくべきことが非常にたくさんあります。学校に危機管理主任みたいな校務分掌が必要かもしれません。

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2005年6月25日 (土)

沈黙はことばに

ことばは沈黙に
光は闇に
生は死の中にこそあるものなれ
飛翔せるタカの
虚空にこそ輝ける如くに
-「エアの創造」-

ゲド戦記の1巻(岩波書店)の扉に書いてある言葉です。

その言葉を反対にして
「沈黙はことばに、闇は光に、死は生の中にこそあるものなれ」と考えてみてもおもしろいような気がします。

言葉にできず沈黙しているならば、その沈黙はすでに何かを語っているのでしょう。
何かが語られているからこそ、その言葉の届かない何かは沈黙されているのです。

闇が闇として認識されるのならば、それはもう既に闇ではないでしょう。
光の中にこそ真の闇があるのかもしれません。

死が生の終わりであるならば、それは生きている人全てに決して訪れることはないはずです。
生きている時間の中にこそ本当の死があるのかもしれません。

「技術は人格の中にこそある」とか「人格は技術の中にこそある」とか書いたら、論争がまた勃発してしまうでしょうか。

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2005年5月18日 (水)

描画テスト・描画療法入門

藤掛明著「描画テスト・描画療法入門」金剛出版
という本を読みました。
具体的にわかりやすく書かれています。

テストとしての描画は、テスターと相手の相互作用の中で生まれてくるものであるということが、ただのそういう説明ではなく、実感として伝わってくるように思います。
また、描画療法も、ただ単に描かせるのではなく、そこに、援助者と被援助者の相互作用がダイナミックに働いていることがわかります。「描画療法の感動」という章で紹介されている青年の事例は、描画という場で生じる相互作用が劇的に働いています。こんなふうに関われるようになりたいものです。

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2005年4月12日 (火)

ころんで学ぶ心理療法

ころんで学ぶ心理療法―初心者のための逆転移入門

著者の遠藤裕乃さんは、私と同年代の臨床心理士のようです(面識はありません)。心理療法やカウンセリングの初心者が、実践場面で頻繁に出会う問題を分かりやすく解説してくれています。しかも、具体的にどのように考え、難しい局面を切り開いていくかについて書かれています。私も初心者の時に、こんな本を読みたかったと強く思いました。もちろん今読んでも、非常に勉強になりました。

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老いていくこと

朝日新聞で、若年性のアルツハイマーに関する記事が連載されている。読むたびに切ない気持ちをかき立てられる。

ずいぶん前のことになるが、詩人の谷川俊太郎が、高齢者のグループホームを訪れているドキュメンタリー番組を見た。そこに、入所している高齢者の方々は、既に痴呆の症状がある程度進んでいて、スタッフを自分の子どもと間違えていたり、いろいろと記憶が混乱したりしている様子であった。

一般に、痴呆の高齢者とのやり取りは、堂々巡りであったり、急に過去に戻ってしまったりすることがあり、私には、話が通じない・訳が分からないように感じられるものだった。私が他の誰かと間違えられたり、私のことを忘れてしまったり、私が言ったことがきちんとわかってもらえなかったり、そういったことは、痴呆の高齢者との会話では、非常に生じがちであるが、(少なくとも)私には、強い不快感を感じさせるものだった。そういったこともあって、私は自分は痴呆にはなりたくないという気持ちをずっと抱き続けていた。

しかし、その番組を見ていて、自分が老いていき、さらには、痴呆になるかもしれないということを、少しだけ受け入れることができたように感じた。つまり、そこのグループホームのスタッフや、谷川俊太郎と、入所者とのやり取りをみていて、私なりに、ある一つの発見をしたのだった。そこで見た痴呆の老人の言葉は、一種の詩であり、夢であった。痴呆の老人の言葉には、論理的な整合性や合理性はほとんどない。しかし、相手の雰囲気・その場の雰囲気を感じ、そして、それに呼応して言葉が生まれてきている。

詩に、論理的合理的な辻褄を求めることは非常にもったいない。詩は味わい・感じ・楽しむものだ。夢に、論理的合理的な筋道を求めることは非常にもったいない。夢は味わい・感じ・楽しむものだ。そこには、論理性・合理性では計れない価値がある。

私の尊敬する 神田橋條治 はこう書いていた。

「六十年の人生を振り返ってみても、大切な部分はコトバや写真で残されず、ただ雰囲気の記憶として味わっているときだけが、歪みが少ないようです。精神療法のたいせつな部分もまた、雰囲気としか言いえないようです。いまのわたくしは、コトバの論理の部分を受け取り論理を返す段階、は卒業したものの、まだ、コトバが運んでくるイメージを感知して、コトバを使ってイメージを送り込む、という対話の段階にいます。残された人生は、雰囲気を受け取り、雰囲気を返すという対話の技術の錬磨、に使いたいと思っています。六十年を振り返り、人生での触れあいが、総じて、感謝の雰囲気を帯びるようになってきていることが嬉しく感じられています。」

(「対話精神療法の初心者への手引き」あとがきより)

おそらく、詩を語り、夢を語るボケ老人になるには、無意識の豊かさが必要になるだろう。そのために、いまから出来ることは、たくさんあると感じている。そう考えていくと、私は、自分がボケ老人になっていくことが、少しだけ楽しみになってきた。

認知症というコトバが、ボケや痴呆というコトバの替わりに使われているようです。ボケや痴呆というコトバの響きには否定的な印象を持つ人が多いためなのかもしれません。認知症というコトバは、歴史や文脈から断絶して現れてきたように感じます。そのためもあって、否定的な印象が少ないのでしょう。反対に、ボケや痴呆というコトバは、それなりの歴史や文脈を持っているのです。身近に老人と接してきた人にとっては、ボケや痴呆というコトバは、愛憎入り交じった気分を呼び起こすのかもしれません。しかし、愛憎入り交じった気分というのが、人に関わっていくということの本質ではないかと、私は感じています。

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グインの言葉

「グインサーガ」(栗本薫著)が100巻達成されました。

栗本薫著 グイン・サーガ第83巻
 「嵐の獅子たち」p46~47より

ときには俺は敵をも信じる。敵の知性を信じられるときにはそれを信じる。敵の計算づくを信じられるときにはそれを信じる。信じるというのは、なにも何から何まで相手がおのれに都合よくしかふるまわないだろうと考えることではない、それは信頼ではなくておのれの傲慢というものだ。信じるというのは、おのれの相手を見る目の正しさをたのむことだ。その目が正しければ、俺はなにも失望せずにすむ。 -俺はいまだかつて、なにものかに失望させられたことはないと思っている。

それにしても、グインってかっこいい

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2005年4月11日 (月)

陰陽師 昔の記事です

陰陽師
岡野玲子作(夢枕貘原作)
の「陰陽師」という漫画がブームになっている。陰陽師というタイトルからは、陰陽道の呪法を使って悪鬼・悪霊を退治するストーリーを想い描きがちである。しかし、この漫画に登場する陰陽師、安倍晴明はかなり異なっている。悪鬼や悪霊の霊的なパワーに、陰陽道の呪法のパワーで立ち向かっていくのではない。彼らのやむにやまれぬ事情や心情を理解し、そしてそれらの「思い」をとかしていこうとしている。晴明は言うのである、「知らぬのか、優しい言葉ほどよく効く呪はないぞ」と。また、「鬼に対して必要なことは、畏れでも敬いでもなく、正しい理解だよ」とも語っている。

この物語を現代の視点で捉えると、悪鬼や悪霊の行いは、心理的な症状や問題行動に相当すると考えられる。また、この世に残ってしまった思いは、心の奥に潜む心的外傷(トラウマ)に相当すると言える。そこから、現代に求められるカウンセラー像を、晴明のようなあり方に求めるといった考え方も見受けられる。晴明は、現代のスーパーヒーラー(治療者)であるといったところであろうか。

この物語りには、もう一人の重要な人物が登場してくる。源博雅である。私は、博雅の存在の大きさを指摘したい。晴明と博雅は2人で1人の治療者といえるのである。晴明は、自分自身の歴史の中で、トラウマを背負って生きてきた。そのことが、彼の冷たく鋭い印象につながっている。そして、晴明はどこか斜に構え生きている。反対に、博雅は「天然ボケ」である。情に厚く涙もろい、しかも悪霊の呪にも、うかうかとはまってしまう。また、管弦のセンスは非常に秀でたものをもっていて、鬼の吹く笛の音に涙を流して感動してしまう。

好対照であるこの2人の存在は、心理臨床家の2つの側面が人格化して表現されているように思われる。つまり、2人で1人である。「参与しつつの観察」という言葉があるのだが、参与する(コミットする)という側面を博雅が担い、観察する(少し引いて客観的に眺める)という側面を晴明が担っていると考えることができるだろう。その意味で、晴明は「欠けたる治療者」である。

また、晴明も博雅も、悪鬼や悪霊つまり、「症状」を尊重し大切に関わっていることが、非常に示唆に富んでいる。博雅は、鬼の吹く笛の音に感動し、涙ぐんだりもしている。また、晴明は、死体にとりついた悪霊を消し去ってしまうのではなく、琵琶(楽器)にとりつかせることによって、悪霊と人間を共存させている。つまり、症状や問題行動を忌み嫌い、なくしてしまおうというスタンスではなく、症状や問題行動をもった人間を全体として理解し支えていこうという、スタンスである。晴明は、その表面的に見える冷たさとはまた違った、暖かさを内側に秘めている。そして、その温かさは、どちらかと言えば、人間に向けられるよりは、鬼に向けられているように感じられる。

漫画のストーリーが進むと、晴明は、博雅との共同作業の中で次第に成長して、本物のスーパーヒーラーになりつつある。晴明の行いは、非常に深遠で私の理解の及ぶ範囲を遙かに超えてしまった。未熟なカウンセラーである私は、治療者としては癖の多すぎる頃の晴明にたいして、親しみやあこがれの気持を感じてしまう。
2001.8.26

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