日記・コラム・つぶやき

2010年6月28日 (月)

ジェダイ

NHKで、スターウォーズを見ています。

ジェダイってパダワンを大切にしますね。見捨てたりしません。
シスは、ほとんど弟子を大切にしません。

単純なことのようで、すごく大切なことのように思います。

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クリミナルマインド

最近、深夜番組でやっているクリミナルマインドを録画してみています。かなりお気に入りになってしまいました。

あの番組は結局、「大いなる父」の物語だなぁと思ったりします。何となく「大草原の小さな家」を思い出したりしました。全く詳しくないのですが、アメリカのテレビドラマには、「大いなる父」の物語の系譜があるんでしょうか・・・。

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2010年5月 6日 (木)

児童虐待で死亡

2つのニュースをクリップしておきます。

生後9日の長女の首を絞めて殺した容疑で母親逮捕、「子育てする自信がなかった」/川崎

5月5日18時30分配信 カナロコ
 生後9日の長女の首を絞めて殺したとして、幸署は4日、殺人の疑いで、川崎市幸区下平間、無職の女の容疑者(33)を現行犯逮捕した。同容疑者は「子育てする自信がなかった」と供述、容疑を認めているという。

 逮捕容疑は、同日午後8時40分ごろ、同区新塚越の複合商業施設「ルリエ新川崎」3階の女子トイレ個室内で、生後9日の長女の首を絞めて殺したとしている。

 同署によると、同容疑者から「娘を殺した」と110番通報があり、駆け付けた同署員が個室内の荷台であおむけに倒れている長女を発見、同容疑者を取り押さえた。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100505-00000019-kana-l14


無理心中? 死亡した4歳女児と首切った母見つかる 川口

5月4日17時36分配信 産経新聞
 4日午前1時ごろ、埼玉県川口市原町のアパートに住む男性会社員(49)方で、妻(42)が首などから血を流し、長女(4)とともに倒れているのを帰宅した男性が発見し、119番通報した。救急隊員が駆けつけたところ、妻は首や両手首を刃物で切って重傷、長女は目立った外傷はなかったが、すでに死亡していた。

 川口署の調べでは、妻が倒れていた付近から血の付いた刃物が見つかった。男性は「妻は長女が発育不全で悩んでいた」と話しているという。同署は妻が無理心中を図ったとみて調べている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100504-00000527-san-l11

この取り上げた事件は、5月4日に児童虐待によって子供が死亡した事件といってよいと思います。
しかし、yahooニュースの児童虐待のカテゴリーには掲載されていません。それぞれ、殺人事件のニュースのカテゴリー、自殺問題のニュースのカテゴリーに掲載されています。もともと、子どもの虐待は、なかなか見えにくいものですが、こんなところでも、見えにくくなっています。

児童虐待のyahooニュースのカテゴリーはこちらから
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/child_abuse/

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2010年4月30日 (金)

NHK特報首都圏「“ひとり”が怖い」

NHKの特報首都圏「“ひとり”が怖い」(4月23日(金)19:30)という番組を見ました。

ひとりでは学食に入れないという若者が増えている。なかにはトイレで食事をすませる学生もいる。背景には、周囲から友だちがいないさびしい人間だと思われたくない心理が働いている。専門家は、携帯メールで24時間常に維持される友人関係が、自己肯定感の大部分を占めるようになったと分析。大学では、友だち以外の分野で自分の居場所を持てるように、さまざまな取り組みを始めている。“ひとり”が怖いという若者の姿を伝える。

「カウンセラーズカフェ」というサービスを学生相談室が提供していて、昼食を学生相談室のカウンセラーと一緒に取れるようにしていました。中学校のスクールカウンセラーとして仕事をしていて、10年ぐらい前は「自由来室活動」という活動に力を入れていたことを思い出しました。
昼休みとか休み時間に、相談室を開放して、誰でも相談ではなく遊びに来てかまわない、という場面を設定していました。たくさんの中学生がやってきて、一緒におしゃべりをしたり、くつろいだりするという感じで、活動していました。もちろん、カウンセリングや相談も大切ですが、それ以前に、人と人がごく自然に関わるおしゃべりの体験が大切だと感じていました。最近では、スクールカウンセラーの学校での勤務時間が限られてしまって、そういう活動に時間を割くことができなくなってしまいました。良いとか悪いとか言うことではなくて、大学生になっても、そういうニーズがあるということですね。

NPOで大学生を支援している人が出てきてしゃべっていましたが、大学のことを「学校」と言っていたのが、印象的でした。私には、大学は「学校」ではありませんでした。私にとって「学校」という言葉は、小学校、中学校、あるいは「自動車学校」のように、何かを教えてもらう場所です。「大学」は、教えてもらう場ではなく、自分で学ぶ場なので、「学校」ではないような感覚です。今の大学生たちにとっては、大学は『おしえてもらう場』なんだなぁと、しみじみ感じました。

また、友達との携帯電話のメールの返信は、できる限り早くしないといけないという話が出ていました。一般に、コミュニケーションの中では、言語的な側面だけではなく、非言語的な側面が重要です。特に、人と人がコミュニケーションをする際の満足度や手応えは、非言語的なコミュニケーションからもたらされるように思います。しかし、携帯メールのやり取りでは、非言語的なコミュニケーションは、非常に限られています。メールの中に、絵文字などを使ったりもしますが、限界は多いですし、絵文字は何度も使っているうちにただの文字と同じ程度の意味合いになってしまうでしょう。そうすると、携帯メールのやり取りで残っている非言語的な要素は、反応の早さです。携帯メールでしっかりと人と関わっている感じを相互に大切にするのならば、反応を早くするしかないのでしょう。

全体的な印象ですが、やっぱり、人と人は、面と向かっておしゃべりをするような体験が日々の中で非常に大切だと言うことを再確認しました。

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2008年8月21日 (木)

プレヴァーバルな内容(崖の上のポニョ その2)

リサと宗介が船の上の耕一と、モールス発光信号でやりとりをするシーンがあります。何となく心にじーんと来る場面でした。離れていくのは寂しいけれど、しっかりつながっているような感じが、モールス発光信号のやりとりには感じられました。

この場面を見ながら、携帯でメールをやりとりをすることと、モールス発光信号でやりとりをするのは、どこか違うのだろうか? と考えていました。携帯メールでも、モールス発光信号でもやりとりされるのは、文字でしかありません。その点では、同じなのです。それでも、モールス発光信号でやりとりをする方が、携帯メールのやりとりより、人間くささが感じられます。

じつは、モールス発光信号のやりとりは、プレヴァーバルなコミュニケーションをたっぷり伝えてくれているの
だと思います。例えば、「B」という文字は「ツートトト(-・・・)」だそうです(http://www.nexyzbb.ne.jp/~j_sunami76/morse_koue.html)。「B」は「B」でしかないのですが、その発光信号が点滅するリズムや速さは、信号を発している人の今の気分や雰囲気を反映しているはずです。言葉になりにくい(言葉以前の)感覚や思いは、「B」という文字そのものではなく、その発光リズムや速さを通して、受け手に伝わっていくのでしょう。もし、船がどんどん遠くに離れていくまでずっとモールス発光信号でやりとりを続けていくと、次第に、信号が見えにくくなって、離れていく距離を感じたりするでしょう。携帯メールは、繋がるか繋がらないかのどちらかしかありません。人の心は、簡単に割り切れるものではなく、複雑にごちゃごちゃと、動きつづけるものでしょう。だから、携帯メールよりも、モールス発光信号のやりとりの方が人の心の動きにしっくりくるのかもしれません。

話は飛びますが、絵もCGを全く使わないで全て手で描くアニメーションだそうです。映像を見ていて非常にリアリティを感じました。人間が描く絵なので、人間が感じるリアルさがそこに出てくるのかもしれません。ちょうど、録音された音を聞くと、雑音がうるさく感じるけれども、実際にその場にいると雑音がうるさいわけではない、というようなことと関係があるかもしれません。脳は、情報を取捨選択して、何かに注目して、現実を捉えています。CGのような技術を使って、事実を再現することは、脳が感じるリアルとはずれているかもしれません。ポニョが食べ物を食べながら寝そうになる時の表情は、かなりデフォルメされていて、単なる絵としてはリアルさがないかもしれませんが、「あー、そうそう、こんな感じ、こんな感じ!」と非常に心を動かされるシーンでした。

また、映画館には、子供連れが多く、小さな子たちもたくさん、見に来ていました。今までの経験では、子供向けの映画であっても、小さな子たちはいろいろうるさくおしゃべりしたり、動き回ったり、いろいろと落ち着かないものでした。でも、ポニョの場合映画が始まると、本当に静かになって、小さな子たちも集中して見ているような感じでした。

こんなことを考えていくと、ポニョの映画は、プレヴァーバルな内容が非常に豊かな映画なのではないかなと思います。言葉や概念では捉えにくい内容が豊かで、そこが心に響いてくるのかもしれません。

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2008年8月17日 (日)

崖の上のポニョ

「崖の上のポニョ」を見てきました。絶賛するより他にないです。
掛け値なしに3歳から103歳まで楽しめる作品だと思います。勝手な想像ですが、他の文化圏でも、同じように人々を引きつけるのではないでしょうか?それだけ、普遍的なものが描かれているように思います。
個人的には、宮崎作品の中で一番すばらしい作品だと思いました。

ネタばれあり

ポニョが宗介に会いに行こうとすることは、甚大な災害を引き起こしてしまっています。何しろ、人工衛星が落下し、月が異常に地球に接近し、巨大な津波で、町ごと海に飲み込まれてしまっています。大げさではなく、地球規模の災害です。そんな中、宗介とポニョは、ポニョが魔法で大きくしたポンポン船に乗って、リサを探しに行きます。その途中で、船に乗って、避難しようとしている人たちに出会います。その人たちが、非常に印象的でした。
避難しようとしている人たちの船には大漁旗が掲げられていて、海のお祭りのようです。大きな災害に遭遇しているのに、悲惨さや悲壮感はなく、しっかりと足がついて立っている感じでした。

このシーンを見て、「風の谷のナウシカ」(原作)の一場面を思い出しました(7巻の最後の方、物語の終わり近く)。ナウシカがシュワの墓所で、墓所の主に向き合っているシーンです。墓所の主は墓所の主の人類を再生する計画を破壊しようとするナウシカに向かい「そなたは闇だ。いのちは光だ。」と非難します。ナウシカは、それに応え「いのちは闇の中にまたたく光だ」と叫ぶのです。

大きな災害が生じたり、世界は闇に包まれるかもしれない、しかし、いのちは小さくまたたいていて、消えそうであっても、光なのかもしれません。

「崖の上のポニョ」の登場人物達は、小さな存在であっても、またたくような光であっても、しっかりと光を放っているように感じました。ナウシカは叫んだけれども、叫ぶことさえ必要ないかもしれません。自分にできることを、自分にできる範囲で、淡々ときちんと行っていくこと、それが素晴らしいことなんでしょうね。

地球温暖化が深刻化してきて、私は、個人的には、自分の子どもたちが、本当に悲惨な目に遭うのではないかと、強く危惧しています(地球が人の住める環境ではなくなってしまうのではないかと心配です)。子どもたちを授かって、私は本当に幸せなのですが、悲惨な世界に子どもたちのいのちをを生み出してしまって良かったのかどうかと、疑問・不安・申し訳なさをつよく感じています。

宮崎監督の作品は、悲惨な世界でも、人間が生きていくプロセスは、美しく素晴らしいものだと、教えてくれるような気がします。ナウシカのように叫ぶ必要はなく、できることをできる範囲で淡々とこなしていくことが、生きていくすばらしさかもしれないと、私を支えてくれます。

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2008年4月 8日 (火)

何を見つけることができるか

「確かな存在」という記事にコメントをいただきました。コメントありがとうございます。

私たちが持っている時間は限りがあります。スクールカウンセラーの勤務時間が少ないということだけではなくて、私たちはいつか死んでしまう存在ですので、私たちが持っている時間には必ず限りがあります。限りがある資源を有効に使うには、資源を使う先をよく考えないといけないですね。だから、今生じていることのなかで、何に関わっていけるのか、何に関わっていきたいのか、ということがすごく大切だと思います。

しかし、何かを見つけることができなければ、それに関わっていくことはできないのです。だから、何を見つけることができるかということが、すごく大切なことのように思います。

価値あるものを一つひとつ見つけていきたいものです。

余談ですが、
見つけていないものに、きちんと関わることができることもあるように思います。それは、私の場合、大いなる自然を連想します。余計な意図や人為がない自然がそこに生きているのでしょう。無為自然、(タオ(道)…?)ですね。しかし、それはある境地に達した名人の業でしょう。私は小さな工夫を積み重ねていたいように思います。

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闘病の甲斐なく

若くして病に倒れ、亡くなられたある歌手についてのドキュメンタリーが放送されていました。
そのドキュメンタリーの最後の部分で「闘病の甲斐なく、○○歳で亡くなられました」とナレーションがありました。

この言葉に、さびしい気持ちになりました。

確かに、亡くなったことは悲しいし、悔しいし、たとえようのない気持ちがするでしょう。
しかし、闘病の意味がなかったかのように表現することは、余計に悲しい気がします。
亡くなったことは悲しいのですが、闘病によって少しでも多くの時間を共有することができたわけです。
「闘病の甲斐なく亡くなった」と言われると、共有できたその時間そのものの価値がないように言われてしまったような気がします。

私は、「闘病の甲斐があった、おかげで、大切な時間を共有できた。」と言いたいし、言ってほしいように思います。


最終的には、全ての人は、死んでしまいます。死んでしまうから生きてきたことが意味がないわけではなく、生きてきた時間に意味があり・価値があるように思います。私たちは必ず死んでしまうのですが、全ての闘病、そして明日も生きていこうとする小さな努力は、必ず甲斐があるのです。

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2008年1月27日 (日)

生きてるだけでだいたいOK


マギー司郎さんの本です。タイトルが良いですね。「だいたい」が効いています。
マギー司郎さんは、NHKの「ようこそ先輩」という番組で、出身小学校の茨城県の当時下館市の養蚕小学校に行って授業をしていたのを見させてもらいました。
子どもたちとの関わりがすばらしく、すごく感動した記憶があります。

そのマギー司郎の本で、「だいたいOK」っていうのがまた心を引きつけますね。
まだ読んでませんが、是非読んでみたい本です。

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2006年9月 1日 (金)

映画 ゲド戦記

娘が友達といっしょに映画「ゲド戦記」を見てきてパンフレットを買ってきました。そのパンフレットに原作「ゲド戦記」の翻訳者の清水真砂子が一文を寄せていて、興味深く読みました。映画では原作と違ってアレンは父王殺しをしているのです、宮崎吾朗監督のオリジナルの設定なのです。そのことを清水真砂子は指摘し、「父親を殺して、さあどうするか。これもまたひとりアレンのあるいは監督の抱える問いではすまないはずです。」と述べています。また、プロデューサーの鈴木敏夫も、宮崎吾朗を監督に起用したことについて文章を書いています。これらを読んで、映画「ゲド戦記」も見なければならないなぁという気持ちが強くなってきました。
一方、現実の世界でも子どもが親を殺すという事件が相次いで生じています。物語の中のことと、現実を単純に結びつけてしまうのは、愚かなことかもしれませんが、いろいろと考えさせられてしまいます。子どもが親から自立していくとき、精神的に親殺しを行うという考え方があります。精神的な親殺しが上手くいかなかった時に現実場面で親を殺害してしまうということが生じるのかもしれません。たしか、「大人になることのむずかしさ」(河合隼雄)にそういう内容が書かれていたような記憶があります。
そんな風に考えていくと、宮崎吾朗監督にとって映画「ゲド戦記」は精神的な親殺しだったのかもしれないという連想が浮かんできます。
物語と現実は、複雑に重なり合い、多層的な意味を形成しているように思われます。一面的に切り取って分かったような気になることは、物語も現実も、そして、その両方を生きている自分自身も貶めてしまうことに繋がるようなきがしています。
ところが、子どもの起こす重大事件に関連して「増す重要性 スクールカウンセラー」という記事が岩手日報に掲載されていました(驚きです!)。子どもにとってカウンセリングが必要なのではなく、そばにいてしっかりと関わってくれる人が必要なのではないかと、思います。危機に瀕している子ども達の所には、きわめて幸運な例外を除いてスクールカウンセラーの手は届かないでしょう。スクールカウンセラーは元々遠くにしかいないのです。多くの大人がほんの少し手を伸ばせば、しっかりと身近な子どもに手が届くのではないでしょうか。
たぶん、そこから始まるのです。
魔法を使って命の本来の姿を歪め永遠に生きるという欲望をかなえることは決して許されないのです。心理臨床の専門性を使っても、人と人との自然な関わり合いの中で子どもが育つことを歪めてしまうのは許されないことのような気がします。
何かが起きてしまっている場所に外側から手をのばしそこに影響を与えるのではなく、何かが起きている場所で当事者がしっかりと関わり合っていくことこそ大切なように思います。スクールカウンセラーに出来ることはほとんどないのです。

ゲド戦記の原作者の新作です。読んでみたいと思います。

父王に目を封印されてしまった少年がでてくるようです。

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