日記・コラム・つぶやき

2008年8月21日 (木)

プレヴァーバルな内容(崖の上のポニョ その2)

リサと宗介が船の上の耕一と、モールス発光信号でやりとりをするシーンがあります。何となく心にじーんと来る場面でした。離れていくのは寂しいけれど、しっかりつながっているような感じが、モールス発光信号のやりとりには感じられました。

この場面を見ながら、携帯でメールをやりとりをすることと、モールス発光信号でやりとりをするのは、どこか違うのだろうか? と考えていました。携帯メールでも、モールス発光信号でもやりとりされるのは、文字でしかありません。その点では、同じなのです。それでも、モールス発光信号でやりとりをする方が、携帯メールのやりとりより、人間くささが感じられます。

じつは、モールス発光信号のやりとりは、プレヴァーバルなコミュニケーションをたっぷり伝えてくれているの
だと思います。例えば、「B」という文字は「ツートトト(-・・・)」だそうです(http://www.nexyzbb.ne.jp/~j_sunami76/morse_koue.html)。「B」は「B」でしかないのですが、その発光信号が点滅するリズムや速さは、信号を発している人の今の気分や雰囲気を反映しているはずです。言葉になりにくい(言葉以前の)感覚や思いは、「B」という文字そのものではなく、その発光リズムや速さを通して、受け手に伝わっていくのでしょう。もし、船がどんどん遠くに離れていくまでずっとモールス発光信号でやりとりを続けていくと、次第に、信号が見えにくくなって、離れていく距離を感じたりするでしょう。携帯メールは、繋がるか繋がらないかのどちらかしかありません。人の心は、簡単に割り切れるものではなく、複雑にごちゃごちゃと、動きつづけるものでしょう。だから、携帯メールよりも、モールス発光信号のやりとりの方が人の心の動きにしっくりくるのかもしれません。

話は飛びますが、絵もCGを全く使わないで全て手で描くアニメーションだそうです。映像を見ていて非常にリアリティを感じました。人間が描く絵なので、人間が感じるリアルさがそこに出てくるのかもしれません。ちょうど、録音された音を聞くと、雑音がうるさく感じるけれども、実際にその場にいると雑音がうるさいわけではない、というようなことと関係があるかもしれません。脳は、情報を取捨選択して、何かに注目して、現実を捉えています。CGのような技術を使って、事実を再現することは、脳が感じるリアルとはずれているかもしれません。ポニョが食べ物を食べながら寝そうになる時の表情は、かなりデフォルメされていて、単なる絵としてはリアルさがないかもしれませんが、「あー、そうそう、こんな感じ、こんな感じ!」と非常に心を動かされるシーンでした。

また、映画館には、子供連れが多く、小さな子たちもたくさん、見に来ていました。今までの経験では、子供向けの映画であっても、小さな子たちはいろいろうるさくおしゃべりしたり、動き回ったり、いろいろと落ち着かないものでした。でも、ポニョの場合映画が始まると、本当に静かになって、小さな子たちも集中して見ているような感じでした。

こんなことを考えていくと、ポニョの映画は、プレヴァーバルな内容が非常に豊かな映画なのではないかなと思います。言葉や概念では捉えにくい内容が豊かで、そこが心に響いてくるのかもしれません。

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2008年8月17日 (日)

崖の上のポニョ

「崖の上のポニョ」を見てきました。絶賛するより他にないです。
掛け値なしに3歳から103歳まで楽しめる作品だと思います。勝手な想像ですが、他の文化圏でも、同じように人々を引きつけるのではないでしょうか?それだけ、普遍的なものが描かれているように思います。
個人的には、宮崎作品の中で一番すばらしい作品だと思いました。

ネタばれあり

ポニョが宗介に会いに行こうとすることは、甚大な災害を引き起こしてしまっています。何しろ、人工衛星が落下し、月が異常に地球に接近し、巨大な津波で、町ごと海に飲み込まれてしまっています。大げさではなく、地球規模の災害です。そんな中、宗介とポニョは、ポニョが魔法で大きくしたポンポン船に乗って、リサを探しに行きます。その途中で、船に乗って、避難しようとしている人たちに出会います。その人たちが、非常に印象的でした。
避難しようとしている人たちの船には大漁旗が掲げられていて、海のお祭りのようです。大きな災害に遭遇しているのに、悲惨さや悲壮感はなく、しっかりと足がついて立っている感じでした。

このシーンを見て、「風の谷のナウシカ」(原作)の一場面を思い出しました(7巻の最後の方、物語の終わり近く)。ナウシカがシュワの墓所で、墓所の主に向き合っているシーンです。墓所の主は墓所の主の人類を再生する計画を破壊しようとするナウシカに向かい「そなたは闇だ。いのちは光だ。」と非難します。ナウシカは、それに応え「いのちは闇の中にまたたく光だ」と叫ぶのです。

大きな災害が生じたり、世界は闇に包まれるかもしれない、しかし、いのちは小さくまたたいていて、消えそうであっても、光なのかもしれません。

「崖の上のポニョ」の登場人物達は、小さな存在であっても、またたくような光であっても、しっかりと光を放っているように感じました。ナウシカは叫んだけれども、叫ぶことさえ必要ないかもしれません。自分にできることを、自分にできる範囲で、淡々ときちんと行っていくこと、それが素晴らしいことなんでしょうね。

地球温暖化が深刻化してきて、私は、個人的には、自分の子どもたちが、本当に悲惨な目に遭うのではないかと、強く危惧しています(地球が人の住める環境ではなくなってしまうのではないかと心配です)。子どもたちを授かって、私は本当に幸せなのですが、悲惨な世界に子どもたちのいのちをを生み出してしまって良かったのかどうかと、疑問・不安・申し訳なさをつよく感じています。

宮崎監督の作品は、悲惨な世界でも、人間が生きていくプロセスは、美しく素晴らしいものだと、教えてくれるような気がします。ナウシカのように叫ぶ必要はなく、できることをできる範囲で淡々とこなしていくことが、生きていくすばらしさかもしれないと、私を支えてくれます。

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2008年4月 8日 (火)

何を見つけることができるか

「確かな存在」という記事にコメントをいただきました。コメントありがとうございます。

私たちが持っている時間は限りがあります。スクールカウンセラーの勤務時間が少ないということだけではなくて、私たちはいつか死んでしまう存在ですので、私たちが持っている時間には必ず限りがあります。限りがある資源を有効に使うには、資源を使う先をよく考えないといけないですね。だから、今生じていることのなかで、何に関わっていけるのか、何に関わっていきたいのか、ということがすごく大切だと思います。

しかし、何かを見つけることができなければ、それに関わっていくことはできないのです。だから、何を見つけることができるかということが、すごく大切なことのように思います。

価値あるものを一つひとつ見つけていきたいものです。

余談ですが、
見つけていないものに、きちんと関わることができることもあるように思います。それは、私の場合、大いなる自然を連想します。余計な意図や人為がない自然がそこに生きているのでしょう。無為自然、(タオ(道)…?)ですね。しかし、それはある境地に達した名人の業でしょう。私は小さな工夫を積み重ねていたいように思います。

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闘病の甲斐なく

若くして病に倒れ、亡くなられたある歌手についてのドキュメンタリーが放送されていました。
そのドキュメンタリーの最後の部分で「闘病の甲斐なく、○○歳で亡くなられました」とナレーションがありました。

この言葉に、さびしい気持ちになりました。

確かに、亡くなったことは悲しいし、悔しいし、たとえようのない気持ちがするでしょう。
しかし、闘病の意味がなかったかのように表現することは、余計に悲しい気がします。
亡くなったことは悲しいのですが、闘病によって少しでも多くの時間を共有することができたわけです。
「闘病の甲斐なく亡くなった」と言われると、共有できたその時間そのものの価値がないように言われてしまったような気がします。

私は、「闘病の甲斐があった、おかげで、大切な時間を共有できた。」と言いたいし、言ってほしいように思います。


最終的には、全ての人は、死んでしまいます。死んでしまうから生きてきたことが意味がないわけではなく、生きてきた時間に意味があり・価値があるように思います。私たちは必ず死んでしまうのですが、全ての闘病、そして明日も生きていこうとする小さな努力は、必ず甲斐があるのです。

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2008年1月27日 (日)

生きてるだけでだいたいOK


マギー司郎さんの本です。タイトルが良いですね。「だいたい」が効いています。
マギー司郎さんは、NHKの「ようこそ先輩」という番組で、出身小学校の茨城県の当時下館市の養蚕小学校に行って授業をしていたのを見させてもらいました。
子どもたちとの関わりがすばらしく、すごく感動した記憶があります。

そのマギー司郎の本で、「だいたいOK」っていうのがまた心を引きつけますね。
まだ読んでませんが、是非読んでみたい本です。

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2006年9月 1日 (金)

映画 ゲド戦記

娘が友達といっしょに映画「ゲド戦記」を見てきてパンフレットを買ってきました。そのパンフレットに原作「ゲド戦記」の翻訳者の清水真砂子が一文を寄せていて、興味深く読みました。映画では原作と違ってアレンは父王殺しをしているのです、宮崎吾朗監督のオリジナルの設定なのです。そのことを清水真砂子は指摘し、「父親を殺して、さあどうするか。これもまたひとりアレンのあるいは監督の抱える問いではすまないはずです。」と述べています。また、プロデューサーの鈴木敏夫も、宮崎吾朗を監督に起用したことについて文章を書いています。これらを読んで、映画「ゲド戦記」も見なければならないなぁという気持ちが強くなってきました。
一方、現実の世界でも子どもが親を殺すという事件が相次いで生じています。物語の中のことと、現実を単純に結びつけてしまうのは、愚かなことかもしれませんが、いろいろと考えさせられてしまいます。子どもが親から自立していくとき、精神的に親殺しを行うという考え方があります。精神的な親殺しが上手くいかなかった時に現実場面で親を殺害してしまうということが生じるのかもしれません。たしか、「大人になることのむずかしさ」(河合隼雄)にそういう内容が書かれていたような記憶があります。
そんな風に考えていくと、宮崎吾朗監督にとって映画「ゲド戦記」は精神的な親殺しだったのかもしれないという連想が浮かんできます。
物語と現実は、複雑に重なり合い、多層的な意味を形成しているように思われます。一面的に切り取って分かったような気になることは、物語も現実も、そして、その両方を生きている自分自身も貶めてしまうことに繋がるようなきがしています。
ところが、子どもの起こす重大事件に関連して「増す重要性 スクールカウンセラー」という記事が岩手日報に掲載されていました(驚きです!)。子どもにとってカウンセリングが必要なのではなく、そばにいてしっかりと関わってくれる人が必要なのではないかと、思います。危機に瀕している子ども達の所には、きわめて幸運な例外を除いてスクールカウンセラーの手は届かないでしょう。スクールカウンセラーは元々遠くにしかいないのです。多くの大人がほんの少し手を伸ばせば、しっかりと身近な子どもに手が届くのではないでしょうか。
たぶん、そこから始まるのです。
魔法を使って命の本来の姿を歪め永遠に生きるという欲望をかなえることは決して許されないのです。心理臨床の専門性を使っても、人と人との自然な関わり合いの中で子どもが育つことを歪めてしまうのは許されないことのような気がします。
何かが起きてしまっている場所に外側から手をのばしそこに影響を与えるのではなく、何かが起きている場所で当事者がしっかりと関わり合っていくことこそ大切なように思います。スクールカウンセラーに出来ることはほとんどないのです。

ゲド戦記の原作者の新作です。読んでみたいと思います。

父王に目を封印されてしまった少年がでてくるようです。

こちらもおすすめ。

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2006年8月22日 (火)

ちょっと、涙が出そうな気がした。

10月さんのブログで、お百度参りが行われています。
このところ、お休みが続いていた、10月さんの登場を多くの人が待ち望んでいるようです。

いろんなことを感じたのですが
言葉にすることで、たくさんのものがこぼれ落ちてしまい、こぼれ落ちてしまうものの中に、大切なものがあるような気がして、上手く言えないのですが…。

そういう場面を見ることで、私自身もあたたかい気持ちになりました。
久しぶりに、記事を書いてみようという気持ちになりました。

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2006年4月14日 (金)

相田みつを


 相田みつをさんの作品を知らない人はほとんどいないと思います。独特の文字と、分かりやすい言葉が人を惹きつける感じですね。実は、ちょっとしたイタズラを何年も前から思いついているのですが、実行に至っていません。それは、作品をスキャンしてデジタル化し、適当に切り貼りして、相田みつをさんが決して言わないような言葉で作品を作って、こっそりどこかに貼っておく、というものです。こんな事を思いつくこと自体が、相田みつをさんには、大変失礼かもしれません。申し訳ありません。

実は、どうしてこんな事を思いついたかというと、理由があるのです。

 学校で仕事をしていると、相田みつをさんの作品(の複製)が学校の廊下の壁に貼ってあったりして、しょっちゅう見かけます。氾濫していると言ってもいいぐらいです。「廊下は走らない」とか書いてある掲示物の下に貼られたりしています。(そういうなんでもありの混沌が学校の良いところかもしれません。)
 でも、相田みつをさんが伝えようとしているメッセージが、ただのスローガンに堕ちていってしまうようで、なんだか、ウンザリしてしまいます。学校で、相田みつをさんの言葉にあることを実現しようとすると、それがどれだけ大変なことであるか、ちょっと考えるだけで、途方に暮れそうです。例えば、『人間だもの』という本の冒頭には、「その時の出逢いが人生を根底から変えることがあるよき出逢いを」という言葉が書かれています。『よき出逢いを』という言葉を壁に貼るのは簡単ですが、本当に子どもたちと「よく出逢おう」と考えると、どんなにか大変なことかと思います。悪い想像をすれば、相田みつをさんの言葉は、「廊下は走らない」と同じように、分かりきっていて、もう誰も気にも留めないようなことになっているかもしれません。

 偽物作品に誰かが気づいてくれて、「おや?」とでも思ってくれれば、少し嬉しいような気がします。

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2006年4月11日 (火)

ブログのタイトル変更しました。

このブログを始めてから1周年になりました。1周年を記念して、ブログのタイトルを変更しました。ハンドルネームも「いちぼん」に変えました。これからも皆さんよろしくお願いします。
リンクしていただいている皆様には、大変お手数をおかけしますが、リンクのタイトルを変更してくださるようお願いいたします。急ぎませんので、何かのついでで、結構です。

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2006年4月 4日 (火)

成分解析というものをやってみました。

yahooのニュースで見かけて面白そうだったので、やってみました。

あるスクールカウンセラーのつぶやきの成分解析結果 :

あるスクールカウンセラーのつぶやきの65%は毒物で出来ています。
あるスクールカウンセラーのつぶやきの18%は陰謀で出来ています。
あるスクールカウンセラーのつぶやきの14%は覚悟で出来ています。
あるスクールカウンセラーのつぶやきの3%は知識で出来ています。

半分以上が毒物だったとは知りませんでした。しかも、後は、陰謀とか覚悟とかですか。なんか、かなりの悪者ですね。知識は3%っていうのは、当たっているかも。


臨床心理士の成分解析結果 :

臨床心理士の64%はかわいさで出来ています。
臨床心理士の30%は元気玉で出来ています。
臨床心理士の2%は汗と涙(化合物)で出来ています。
臨床心理士の2%はミスリルで出来ています。
臨床心理士の1%はスライムで出来ています。
臨床心理士の1%はカテキンで出来ています。

臨床心理士の半分以上はかわいさですか、…、…。それって良いような悪いような…。コメントしにくいですね。しかも、30%は元気玉って、それはいかがなものか…。汗と涙(化合物)がもっとたくさん含まれてないとダメかもしれませんが…。


スクールカウンセラーの成分解析結果 :

スクールカウンセラーの80%はカルシウムで出来ています。
スクールカウンセラーの9%は時間で出来ています。
スクールカウンセラーの8%は夢で出来ています。
スクールカウンセラーの3%は株で出来ています。

うーん。カルシウムか…。まあ、悪くはないか。時間と夢か…。夢ねぇ 夢…。

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