誰もいないし、信頼できる人とか・・・
先日テレビを見ていて、ふと気づいたことです。そのテレビ番組は、親から虐待を受けて児童養護施設で暮らしている子どもの長期取材したドキュメンタリーでした。
長期取材を受けていた子どもからこの記事のタイトルにした「誰もいないし、信頼できる人とか・・・・」という言葉が出てきたのです。その言葉は、「信頼できる人とか、誰もいないし・・・」ではないのです。「誰もいないし、信頼できる人とか・・・」という言葉の順番なのです。この言葉の順序の違いは、決して小さなことではありません。非常に大きな違いがあるのです。
「信頼できる人とか、誰もいないし・・・」という言葉の場合、その言葉を発した人の気持ちの動きは、まず「信頼できる人」のイメージを想起することから始まっています。そのあとには「誰もいないし」という言葉が続きますから、「信頼できる人イメージ」は、現実に存在する信頼できる人のイメージではかもしれません。『信頼できる人って、こんな感じだよね』と何となく捉えているような、漠然としたものかもしれません。しかし、まずそういう人のイメージが心の中に想起され、その上で、「そういう人っていないよね」と否定されているのです。つまり、漠然としたもであったとしても「信頼できる人」のイメージは、その人の心の中で、その人自身の体験や記憶とつながったイメージがあるのです。そして、「ここにはいないけれども、いつかどこかには、そういう信頼できる人はいるのかもしれない」という気分がすこし喚起されます。どこかにいる信頼できる人に向かって、気持ちが少しだけ動き始めているのです。つまり、自分の気持ちが向っていく先である「対象」を心の中にある程度持っていると言えるのです。
反対に、「誰もいないし、信頼できる人とか」という言葉の場合、その言葉を発した人の気持ちは、まず「誰もいない」というイメージから動き始めるのです。ぜひ、「本当に誰もいない」ということをしっかりイメージしてみてほしいと思います。だだっ広い荒野に自分だけがひとり立っていて、見渡す限り、荒れ地で、強い風が吹いていて、ところどころに生えている雑草が風で揺れているようなイメージでしょうか。それとも、塵一つないようなしーんと静まりかえった小さな部屋にひとりでうずくまっているようなイメージでしょうか。その人が抱いたイメージがどのようなものかは知るよしもありませんが、その人の心は「だれもいない」というイメージから動き始めたのです。「信頼できる人がいない」のではなく、「だれもいない」のです。「信頼できる人」というイメージは、その人にとって、ほとんどその人の体験や記憶とつながっていないのかもしれません。自分の気持ちが向かっていく先である「対象」は、心の中にきちんと存在できていないかもしれません。
一般に、虐待は、心の中に「対象」を持つことを阻害します。あるいは、心の中にある、対象を破壊するのです。対象がないということは、どんな活動も、考えも、感情も、対象のない世界、誰もいない世界の中に限りなく拡散していってしまうということです。やる気などの肯定的な気持ちが生まれても、それを適切に何かに向けることができず、活動が長続きしない、とか、悲しさや苦しさをのような不快な感情が生じても、それを誰かに向けて相談したり話し合ったりすることもできず、ただひとりで混乱を深めてしまうなど、長年にわたって非常に深刻な被害がつづく危険性があります。
従って、虐待を受けた子どもたちを支援していく時には、対象をどのように回復していくのかが非常に重要なテーマになります。一方、虐待を受けた子どもたちは、様々な問題行動に陥りがちです。しかしそれは、何とかして自分の対象を回復しようという試みであると、捉えることができます。つまり、問題行動は子どもたちの支援の手がかりであり、問題行動が生じるからこそ、それを通して子どもたちの成長をうながしていくことができるのです。