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2010年7月

2010年7月31日 (土)

群馬県で児童虐待が減少か?

大阪市西区で幼児2人がマンションに放置され、遺体で見つかったという事件がありました。あまりにも悲惨で悲しい事件です。何とか、こういうことを防ぐことができないものかと思います。

全国的にも、児童虐待は増え続けているようです。

児童虐待 相談件数は過去最多 09年度4万4210件
7月28日11時48分配信 毎日新聞
09年度に全都道府県、政令市、中核市の児童相談所(児相)が対応した児童虐待の相談件数は4万4210件(速報値)で前年より1546件増え、過去最多を更新したことが28日、厚生労働省の調べで分かった。90年度の統計開始から19年で40倍超になった。厚労省は「社会的な関心が高まって軽微な事案が掘り起こされている一方、深刻な虐待も増えている」とみている。

 前年より増えた自治体は▽大阪市(1606件、1.84倍)▽静岡市(279件、1.52倍)▽金沢市(226件、1.52倍)▽広島市(451件、1.50倍)など。
(後略)

一方では、群馬県については相談件数が微減でかつ死亡事件が極端に少ないようです。本当に群馬県で少なくなっているのか、他県に比べて少ないのかどうか、もしそうだとしたら、どういう要因で少なくなっているのか、具体的に詳しく検証することによって、児童虐待を防止し、死亡事件を減少させるヒントが見つかるかもしれません。
群馬県の見解としては、24時間以内の安全確認が効果的だったのではないかとしていますが、そういう水際だけの対策だけが要因ではないような気がします。

児童虐待:09年度の相談、526件で全国21位 07年度ピークに減少傾向 /群馬

7月29日13時5分配信 毎日新聞
 厚生労働省は28日、09年度に全国の児童相談所(児相)が対応した児童虐待の相談対応件数を発表した。群馬県は、08年度から13件減り、526件(速報値)で全国21位(08年度16位)だった。
 同省と県によると、08年度の児童虐待死は全国で107件128人。県内は、08年度に伊勢崎市内で男児(7)が母親に連れられて踏切をくぐり、電車にはねられ死亡した1件のみ。09年度は、前橋市内で女性が男児を出産し、直後に死亡した男児をその場に遺棄した1件だった。
 一部改正された児童虐待防止法(08年4月)で、虐待の恐れがある家庭に裁判所の許可に基づいて児相が解錠して立ち入りが可能になった県内の強制立ち入り調査(臨検)は09年度はゼロ。臨検に先立ち、児童の安全確認を行う出頭要求は1件あった。
 また、県内3カ所の児相に寄せられた相談件数は07年度の616件をピークに08、09年度は500件台にとどまる。板倉町で06年12月に1歳6カ月の女児が母親に虐待を受け死亡したのをきっかけに県は虐待の恐れがある子どもの安全確認について国の指針(48時間以内)を短縮して24時間以内としており、県子育て支援課は「県独自の取り組みが虐待死が少ない要因ではないか」と分析している。
 虐待に関する相談は、こどもホットライン24(電話0120・783・884)。【鳥井真平】

7月29日朝刊

児童虐待が減少傾向・横ばいにある都道府県や地域と、増加している都道府県や地域について、子育てや家族に関する支援施策の違い比較してみたり、家族・家庭に関わる統計的なデータを比較してみるなど、何らかの、ヒントを探すことが重要のような気がします。

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2010年7月 9日 (金)

被害者支援

時々拝見している、静岡大学の小林さんのブログに以下のような記事があった。

県警の特別講義

県士会被害者支援委員会のメンバーに、臨床心理士で警察官をしているMさんがいる。

なんと、臨床心理士を持っていて警官として採用されたのは、Mさんが日本初らしく、”銃を持っている臨床心理士”だ。そのMさんから、警察の被害者支援に関する講義をしたいという依頼があった。警察でどのような被害者支援が行われているのか、教師を目指す学生は聞いておく必要があると考えて、早速今日、私が担当している教育学部D組「生徒指導」(約100名)の授業で特別講義をしていただいた。講師は県警被害者支援室長のS氏。

静岡県内の犯罪状況からはじまり、被害者支援に関する制度の変遷、支援内容の実情など詳しく解説して頂いた。そして、被害者や家族の立場に立ったドラマ仕立てのDVDを視聴した。被害者やその家族の苦しみ、それに対する支援について、とてもわかりやすい内容で、犯罪被害に遭った時の辛さや支援の大切さなどが十分わかるものだった。

(後略)


学校現場でも被害者の方に関わることがあります。被害者の置かれている状況に関して、一般の方の理解はまだまだ充分ではないように感じます。自分自身も、自分の家族も、犯罪などの被害者になる可能性は充分にあるわけです。そういう意味で、被害者は、明日の自分自身であり、自分自身が直面している問題なのです。だからこそ、もっとしっかりと被害者の直面する問題などについて理解することは重要だと思います。

いくつか、被害者の方が直面する問題で、あまり理解されていないことを指摘しておきます。

例えば、被害者の方にカウンセリングを受ける勧めることが多くなったようですが、その際にも被害者の方と、感情的なすれ違いが生じがちのように思います。一般的に、カウンセリングを受けるというのは、利用者(来談者)に、時間的・心理的な負担を負わせてしまうものです。カウンセリングそのものを受ける時間や通うための時間も負担となりますし、自分自身のこころの内側を見つめることそのものの負担があります。カウンセリングでは、相談者(クライエント)の側も意外と疲れるのです。
被害者の方は、被害を受けて色々な面で傷ついてしまうだけではなく、警察に行ったり、会社を休んだり、間接的な負担を多く強いられています。被害にあって、必要なことをこなすだけでもかなりの負担を強いられてしまっているのに、それだけではなく、カウンセリングをうけるというのは、さらなる負担でしかないように感じるのかもしれません。被害を受けることによって、ごく当たり前の日常生活が奪われてしまい、必要なこと(例:警察にいくこと)勧められること(例:カウンセリングを受けること)をやっていると、それは今までとは違うことをこなすことになるため、日常生活を取り戻すことができなくなってしまいます。
また、なぜ“自分が”カウンセリングを受けなくてはならないのか、と強い疑問や憤りを感じることもあるようです。カウンセリングを受けて変わらなくてはならないのは、「自分」ではなく、「社会」や「加害者」の方ではないのかと感じることもあるように思います。こういった思いも、被害を負わされたことから生じる、ごく当然のこころの動きではないかと感じます。

だからこそ、被害者の方に、カウンセリングを勧めても、すんなりと受け入れられないことは、むしろごく自然なことだと思われます。被害者の方が、直面させられている現状を少しでも理解し、間接的な負担を強いられていることも理解しつつ、その上で、必要であればカウンセリングを勧めることが大切なことのように思います。

「あなたが強いられている状況は大変な状況だし、色々と面倒なこと、負担の大きいこともこなさないといけないし、それだけでも、大変すぎるぐらいの状況かもしれませんよね。さらにそれに加えてカウンセリング受けたらって言うのも、変かもしれないですね。でも、カウンセリングはあなたにとって、少しは、役に立つかもしれないと思うんです。・・・。うーん・・。でも、ほらレストランのオーナーって『うちの料理はおいしいですよ、是非食べてくださいって』言うでしょ。それと同じで、僕はカウンセラーだから、カウンセリングを勧めるのかもしれませんけどね。まあ、今すぐ受けなきゃいけないっていうものでもないので、頭の片隅にカウンセリングって置いておいてもらえるといいかなぁ・・・。」

もし私ならば、こんな感じで勧めるかもしれません。

もう一点は、被害者の方は、社会的に孤立しがちだと言うことです。
被害者の方の身近な人から見ると、「意外と普通にしてるよ」とか、「なんか大変そうには見えないね」などという印象を持たれることもあるようです。もちろん、見るからに大変そう、苦しそうという場合もあります。しかし、そうではない場合でも、被害者の方は多くの場合、社会的な孤立感を味あわされていると思われます。「社会的に孤立する」という表現を使うと、「友達とも会ってるし、社会的な支援も受けてるし、孤立なんてしてないよね」という印象を持ちがちです。勝手な想像かもしれませんが、被害者の方が直面しているのは、「量的な」孤立ではなく、「質的な」孤立かと思われます。被害を受けることによって、「自分自身が今までの自分自身とは、異なる存在になってしまった、そして、自分の身近な人たちとも異なる存在になってしまった」と感じさせられているように思います。社会的に異質な存在になってしまって、社会から孤立させられてしまったということかもしれません。

しかし、私達は、元々、お互いに異質な存在です。被害者が特別に異質な存在ではありません。むしろ、被害者の方にとっては、「被害体験」は、自分自身の日常生活の体験の中では非常に異質な体験だったのかもしれません。つまり、異質なのは、被害者ではなく、被害体験なのです。日常生活から極めて異質であるからこそ、被害体験は、被害者の方を苦しめるのだと思います。でも、「被害者」=「被害体験」ではありません。被害体験は、日常生活から極めて異質ですが、被害者の方の日常生活・人生は、すべてが被害体験に覆われているわけではありません。繰り返しになりますが、被害者が異質な存在ではなく、被害体験が異質なのです。

そうであっても、被害者の方が自分自身を異質な存在だと思わされてしまうことも無理もないように思います。だからこそ、被害者の方は、こちらには分からないところで、孤立感を抱えているかもしれないと考え、少しでも孤立させてしまわないように関わりたいように思います。

「なんだかね、立ち入ったり、嫌な思いさせたりするつもりはないんだけどね。何か、私にもできることはないかなぁって思うんですけど。なんか、お手伝いできることってないかなぁとか思ったりするんですよ。もしね、あったら、・・・、いやー、ないかもしれないけど、もしあったら、言ってくださいね。」
などと、私なら関わるかもしれません。


被害者の方が直面してしまう問題は、明日の私達自身が直面してしまう可能性のある問題です。被害者の方が生きやすい社会は、私達にとっても生きやすい社会ではないかと思います。少しでもそういう社会が実現できるように願っています。

だからこそ、小林さんのブログに書かれた取り組みは、非常に価値のある取り組みのように思います。全国に広がっていくと良いと思いますし、教師を目指す学生だけではなく、全ての高校生にも一度は学んでほしい内容のように思います。

ここに書かせてもらったことは、私の限られた体験や知識から書いたものです。不十分な点や誤解が生じやすい点があるかもしれません。もしそのような点があったとしても誰かをおとしめたり、傷つけたりする意図ではないことをご了解下さい。考えるきっかけや考えの材料になれば幸いです。

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2010年7月 2日 (金)

記憶

私が私であることを支えているのは記憶です。私がかつて小学生であったことを私はもちろん覚えていますが、どこかで忘れてしまっています。もし、私が「私がかつて小学生であったこと」を決して忘れることができなければ、今の私は今の私でいることはできないでしょう。私は、忘れることができるから、変化し、成長し、今の私になることができたのです。

私は仕事の中で忘れることが苦手な人たちや忘れることが難しい体験をした人たちに出会うことがあります。記憶が薄れないということに、かなり苦しめられてしまうようです。そして、記憶が薄れないことによって、変化が妨げられてしまっています。

あなたの記憶があなたを苦しめているということ、そして、忘れることは決して罪ではないこと、そんなことを話し合うことも一つのスタートになることがあるように思います。

コンピューターが何かを忘れてしまったら、それは、コンピューターの故障です。しかし、人が何かを忘れてしまっても、それはごく普通の人間の姿です。つまり、もともと人間はちゃんと忘れることができるようにつくられているのかもしれません。その人間が元々持つ能力が自然に発揮されない場合に、人は苦しめられてしまうのかもしれないと考えたりします。

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親を守る子ども

子どもの虐待にかんして、問題状況に関わっていくときに、子どもが親を守ろうとすることに良く出会います。

よく、「子どもを愛していない親はいない」と言いますが、私の個人的な体験では、それは全く逆で、「親を愛していない子どもはいない」ように思います。子どもは本当に一生懸命親を支え、親を守ろうとします。

この子どもが親を守ろうとすること、親を支えようとすることが、虐待の問題を解決に向かわせる際の障害になってしまうことがあります。親を守ろうとするために、自分が暴力などの虐待を受けていることを隠そうとしてしまうのです。

虐待への支援が、親との対立構造になってしまうと、子どもの協力が得られにくくなります。親を守るために、子どもが虐待を否定し、支援そのものができなくなってしまいかねません。虐待への支援は、子どもが親を守ろうとする気持ちをしっかりと受け止め、それをきちんと肯定しつつ、虐待への支援は親を否定非難するのではなく、親を助けるし、もちろん、子どもであるあなたも助けるんだということをしっかりと子どもに分かってもらうことが必要だと思います。

子どもも保護者も支援者も、全ての関係者が仲間になって協力し、子どもを虐待させてしまう「何か」から自由になれるような支援をしていかなくてはならないと思います。

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サッカー日本代表への評価

サッカー日本代表が帰国しました。日本代表への評価が、ワールドカップ直前と直後では、手のひらを返したように違ってしまったことに大きな違和感があります。

もし、「勝つか負けるか」、「点を取るか取らないか」、という視点でしか評価をすることができなければ、その評価は非常に荒い物になり、ちょっとした結果の違いで、大きく左右されてしまうことになると思います。結果が全てという考え方もあると思います。しかし、それでは、試合の中で、より点を多く取った方が勝つという、勝ち負けの結果と質的に違いがありません。だから、その上に、「結果が全てだ」として、評価したり、判断したりすることは、ほとんど意味がないように思います。

「ノーベル賞を取ったからすごいので、国民栄誉賞をあげる。」のように、すでに判断され、評価されたことと同じ評価軸を使って何かを判断・評価してもほとんど意味がないのです。


しかし、私達に伝わってくる情報は、マスコミを通して伝わってくる非常に断片的で、断定的な情報だけになります。私達が、日本代表の活動を、私達の独自の評価軸を持ち、しっかりと評価していくことは元々難しい状況にあります。私達が取るべき態度は、「私達が理解していることは、事実のごく限られた側面でしかない」として、自分の判断や評価が一面的かもしれないという態度かもしれません。

スクールカウンセラーの仕事では、子どもたちの不適応や問題行動に関して子どもを支援していきます。例えば、不登校という状況に関わるとして、学校に行ったかどうかという判断の軸しかなければ、上述のように、その評価は評価としてほとんど意味がありません。学校に行ったか行かないかということは、既に行為として結果が出ているからです。そうではなく、何がどのように生じているかについて、理解し判断する視点を持たなくてはならないでしょう。

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