時々拝見している、静岡大学の小林さんのブログに以下のような記事があった。
県警の特別講義
県士会被害者支援委員会のメンバーに、臨床心理士で警察官をしているMさんがいる。
なんと、臨床心理士を持っていて警官として採用されたのは、Mさんが日本初らしく、”銃を持っている臨床心理士”だ。そのMさんから、警察の被害者支援に関する講義をしたいという依頼があった。警察でどのような被害者支援が行われているのか、教師を目指す学生は聞いておく必要があると考えて、早速今日、私が担当している教育学部D組「生徒指導」(約100名)の授業で特別講義をしていただいた。講師は県警被害者支援室長のS氏。
静岡県内の犯罪状況からはじまり、被害者支援に関する制度の変遷、支援内容の実情など詳しく解説して頂いた。そして、被害者や家族の立場に立ったドラマ仕立てのDVDを視聴した。被害者やその家族の苦しみ、それに対する支援について、とてもわかりやすい内容で、犯罪被害に遭った時の辛さや支援の大切さなどが十分わかるものだった。
(後略)
学校現場でも被害者の方に関わることがあります。被害者の置かれている状況に関して、一般の方の理解はまだまだ充分ではないように感じます。自分自身も、自分の家族も、犯罪などの被害者になる可能性は充分にあるわけです。そういう意味で、被害者は、明日の自分自身であり、自分自身が直面している問題なのです。だからこそ、もっとしっかりと被害者の直面する問題などについて理解することは重要だと思います。
いくつか、被害者の方が直面する問題で、あまり理解されていないことを指摘しておきます。
例えば、被害者の方にカウンセリングを受ける勧めることが多くなったようですが、その際にも被害者の方と、感情的なすれ違いが生じがちのように思います。一般的に、カウンセリングを受けるというのは、利用者(来談者)に、時間的・心理的な負担を負わせてしまうものです。カウンセリングそのものを受ける時間や通うための時間も負担となりますし、自分自身のこころの内側を見つめることそのものの負担があります。カウンセリングでは、相談者(クライエント)の側も意外と疲れるのです。
被害者の方は、被害を受けて色々な面で傷ついてしまうだけではなく、警察に行ったり、会社を休んだり、間接的な負担を多く強いられています。被害にあって、必要なことをこなすだけでもかなりの負担を強いられてしまっているのに、それだけではなく、カウンセリングをうけるというのは、さらなる負担でしかないように感じるのかもしれません。被害を受けることによって、ごく当たり前の日常生活が奪われてしまい、必要なこと(例:警察にいくこと)勧められること(例:カウンセリングを受けること)をやっていると、それは今までとは違うことをこなすことになるため、日常生活を取り戻すことができなくなってしまいます。
また、なぜ“自分が”カウンセリングを受けなくてはならないのか、と強い疑問や憤りを感じることもあるようです。カウンセリングを受けて変わらなくてはならないのは、「自分」ではなく、「社会」や「加害者」の方ではないのかと感じることもあるように思います。こういった思いも、被害を負わされたことから生じる、ごく当然のこころの動きではないかと感じます。
だからこそ、被害者の方に、カウンセリングを勧めても、すんなりと受け入れられないことは、むしろごく自然なことだと思われます。被害者の方が、直面させられている現状を少しでも理解し、間接的な負担を強いられていることも理解しつつ、その上で、必要であればカウンセリングを勧めることが大切なことのように思います。
「あなたが強いられている状況は大変な状況だし、色々と面倒なこと、負担の大きいこともこなさないといけないし、それだけでも、大変すぎるぐらいの状況かもしれませんよね。さらにそれに加えてカウンセリング受けたらって言うのも、変かもしれないですね。でも、カウンセリングはあなたにとって、少しは、役に立つかもしれないと思うんです。・・・。うーん・・。でも、ほらレストランのオーナーって『うちの料理はおいしいですよ、是非食べてくださいって』言うでしょ。それと同じで、僕はカウンセラーだから、カウンセリングを勧めるのかもしれませんけどね。まあ、今すぐ受けなきゃいけないっていうものでもないので、頭の片隅にカウンセリングって置いておいてもらえるといいかなぁ・・・。」
もし私ならば、こんな感じで勧めるかもしれません。
もう一点は、被害者の方は、社会的に孤立しがちだと言うことです。
被害者の方の身近な人から見ると、「意外と普通にしてるよ」とか、「なんか大変そうには見えないね」などという印象を持たれることもあるようです。もちろん、見るからに大変そう、苦しそうという場合もあります。しかし、そうではない場合でも、被害者の方は多くの場合、社会的な孤立感を味あわされていると思われます。「社会的に孤立する」という表現を使うと、「友達とも会ってるし、社会的な支援も受けてるし、孤立なんてしてないよね」という印象を持ちがちです。勝手な想像かもしれませんが、被害者の方が直面しているのは、「量的な」孤立ではなく、「質的な」孤立かと思われます。被害を受けることによって、「自分自身が今までの自分自身とは、異なる存在になってしまった、そして、自分の身近な人たちとも異なる存在になってしまった」と感じさせられているように思います。社会的に異質な存在になってしまって、社会から孤立させられてしまったということかもしれません。
しかし、私達は、元々、お互いに異質な存在です。被害者が特別に異質な存在ではありません。むしろ、被害者の方にとっては、「被害体験」は、自分自身の日常生活の体験の中では非常に異質な体験だったのかもしれません。つまり、異質なのは、被害者ではなく、被害体験なのです。日常生活から極めて異質であるからこそ、被害体験は、被害者の方を苦しめるのだと思います。でも、「被害者」=「被害体験」ではありません。被害体験は、日常生活から極めて異質ですが、被害者の方の日常生活・人生は、すべてが被害体験に覆われているわけではありません。繰り返しになりますが、被害者が異質な存在ではなく、被害体験が異質なのです。
そうであっても、被害者の方が自分自身を異質な存在だと思わされてしまうことも無理もないように思います。だからこそ、被害者の方は、こちらには分からないところで、孤立感を抱えているかもしれないと考え、少しでも孤立させてしまわないように関わりたいように思います。
「なんだかね、立ち入ったり、嫌な思いさせたりするつもりはないんだけどね。何か、私にもできることはないかなぁって思うんですけど。なんか、お手伝いできることってないかなぁとか思ったりするんですよ。もしね、あったら、・・・、いやー、ないかもしれないけど、もしあったら、言ってくださいね。」
などと、私なら関わるかもしれません。
被害者の方が直面してしまう問題は、明日の私達自身が直面してしまう可能性のある問題です。被害者の方が生きやすい社会は、私達にとっても生きやすい社会ではないかと思います。少しでもそういう社会が実現できるように願っています。
だからこそ、小林さんのブログに書かれた取り組みは、非常に価値のある取り組みのように思います。全国に広がっていくと良いと思いますし、教師を目指す学生だけではなく、全ての高校生にも一度は学んでほしい内容のように思います。
ここに書かせてもらったことは、私の限られた体験や知識から書いたものです。不十分な点や誤解が生じやすい点があるかもしれません。もしそのような点があったとしても誰かをおとしめたり、傷つけたりする意図ではないことをご了解下さい。考えるきっかけや考えの材料になれば幸いです。