何かを言うとき
何かを言おうとするとき、自分の心が動いている
その動いている心の、動き出しのところを捕まえる。
その動き出しのところに、なじんでいく言葉を使う。
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何かを言おうとするとき、自分の心が動いている
その動いている心の、動き出しのところを捕まえる。
その動き出しのところに、なじんでいく言葉を使う。
自由来室活動の中で、他の子どものことについて、「あいつはキモイ、死んでほしい」などとスクールカウンセラーである私に言ってくる子どもがいます。こういった場合にどんな風にその子どもに関わればよいのでしょうか? 私なりに、考えていることを書きたいと思います。
常識的には、「そんなこと言ってはいけない」とか、「それはひどい言い方だ」とか言ってわからせようとすることが多いように思います。しかし、そんな風に指導しても、効果は薄いように感じます。言ってはいけないことだとか、ひどい言い方だとかいうことが分かっていないから、「あいつはキモイ、死んでほしい」などと言うわけではありません。分かっているにもかかわらず、そんな言い方をする場合がほとんどです。だから、「言ってはいけない」などと指導しても効果は薄いと思います。そして、もし私の前では、「キモイ」などと言わなくなったとしても、それは、本当に言わなくなったのではなくて、私のいないところでは同じように言っている可能性が高いと思います。それは、感情は自然に生じてしまうからです。
人と関わり合っていて、腹がたったり・いやな思いをしたりなど不快な感情が生じることは、ごく自然に誰にでも生じることです。「あいつはキモイ、死んでほしい」などという子どもは、そういう不快な感情を非常に強く感じているといえます。感情は、汗をかいたり、おなかがすいたりという生理現象と同じで自然に生じてきます。だから、「感じてはいけない」といっても効果はありません。自然に生じてくる感情を、よりよい形で表現したり消化することができなければ、他者への攻撃などという形で現れてしまうことは当然といえます。「言ってはいけない」と禁止してみても、生じてしまう不快な感情を良い方法で表現・消化して力を身につけることができなければ、「キモイ」などと攻撃するしかないでしょう。だから、「言ってはいけない」などと指導しても効果は薄いし、もしそれで、言わなくなったとしたら、見えないところで言っているという可能性が高いと思います。
私の場合、相談室で「あいつはキモイ、死んでほしい」と子どもが言った場合、ちょっと驚きつつ穏やかに「えっ? 激しいねぇ・・・。」などと、まず反応しそうです。その上で「キモイってどういうこと?」などと、穏やかに聴いてみたい気がします。子どもは「キモイ、キモイ!! とにかくちょーキモイ!」などと答えそうです。「えーそれじゃあ、なんかよく分からないから、どんなときにちょーキモイって思ったか教えてよ。」などと、聴いてみたいと思います。もし、子どもがそれに答えて、自分の体験を語ってくれればそれは、それでよりよい方向への第一歩だと思います。子どもの話をよく聞かせてもらうと、「あーなるほどねぇ。○○の時に、あなたは、すごくいやな思いをしたんだねぇ。」などと言葉が出てくるかけるかもしれません。もしかしたら、そのいやな気持ちを直接に相手にぶつけ攻撃することをしないで、相談室へやってきて、そのいやな気持ちを私にぶつけているのかもしれません。だから、いやな気持ちをどうしたのか(相手に言ったのかとか)を聞いてみます。その子なりにガマンして、相談室へやってきたのなら、そのことをきちんと評価して「じゃあ、そのときは、ひどいこと言ったりせず、ガマンしてたんだ。それって、すばらしい事じゃない?」などと投げかけてみたいと思います。もし、こんな風に関わることができたら、「あいつはキモイ、死んでほしい」などと言うやり方ではない、よりよい別の道へ進んでいく、小さな一歩だと考えて良いと思います。
しかし、「キモイってどういう事」と穏やかに聞いてみて、さらに「どんなときにちょーキモイって思ったか教えてよ。」と投げかけても、「とにかくキモイ」「もう全然キモイって感じ」などと繰り返し言うだけで、自分の体験に即して自分の気持ちを語ることができないような場合もあると思います。この場合は、感情面で未分化だったり混乱が強かったりという状態かもしれませんし、自分を客観的に見る力があまり育っていないのかもしれません。「よく分からないけど、とにかく、いやな気持ちでいっぱいなんだね」などと、「○○君がキモイ」ということについてではなく、そのこ自身の気持ちに焦点を当てて言葉を投げかけておきたいと思います。「○○君がキモイ」ということからなかなか具体的に自分を語ることができない場合には、この問題だけではなくて、色々な側面からその子ども自身の心の成長をはかっていく必要があるような気がします。
こういった関わりが原則だと思うのですが、多くの人にとっては、生ぬるいやり方のように思われるかもしれません。しかし、子どもの感情の成長、カウンセリングというアプローチの原則から考えても、こういったやり方は理にかなっていると思われます。
子どもの感情の成長については、大河原は、「子どもの感情が育つためには、①怖い悲しいなどのネガティブな感情がわき上がってくる場面で、②思いっきり自由に感情表出をして、③大人に「こわかったね」「かなしかったね」と抱きしめてもらえるという3つのプロセスを含んだコミュニケーションが日常的に保証されていればよいだけなのです。」(「子どもたちの感情を育てる教師のかかわり」 大河原美以 p32-33)と書いています。③では抱きしめるということがかかれていますが、家族ではないスクールカウンセラーが子どもを抱きしめることはできません。きちんと話を聞き、「すごくいやな思いをしたんだねぇ」「いやな気持ちでいっぱいになったんだねぇ」と応えることが、スクールカウンセラーにできることでしょう。
また、カウンセリングというアプローチの原則については、神田橋は、「つまり対話精神療法つねに、この二等辺三角形を保つよう努めているのである。常々この図形を思い浮かべるのが対話精神療法のコツである。」(「精神療法面接のコツ」 神田橋條治 p234-235)と書いています。
「対話精神療法」という言葉が使われていますが、ここでは、カウンセリングとほとんど同義語だと考えてください。ここで触れたいのは、「対話精神療法」と「カウンセリング」の違いに関連する問題ではなくて、2つの共通する根っこの部分での問題だと思います。
神田橋の言う二等辺三角形の関係とは、ある2人が、2人以外の人・物・事について、眺め・語るという関係だといえます。三角形の底辺の端にある2つの頂点は、2人の人です。そして、もう一つの頂点は、眺め・語る対象です。
自由来室活動で、「あいつはキモイ、死んでほしい」と子どもが言ったことに対して、「すごくいやな思いをしたんだねぇ」「いやな気持ちでいっぱいになったんだねぇ」と応えることは、大河原の言うような感情を育てる関わりと考えることができますし、神田橋の言うような二等辺三角形の関係を保つ関わりだと言えると思います。
ところで、裏サイトで「あいつはキモイ、死んでほしい」と書き込んでも、その事(自分の否定的な感情)について、一緒に眺め・語ってくれ、感情の表出を促し、気持ちを抱きしめてもらえることはありません。そうではなくて、大人のいる場面で、大人にぶつけてみることが、大切なことだと思います。「あいつはキモイ、死んでほしい」というような良くないやり方であったとしても、裏サイトに書き込むよりはよっぽど可能性が開かれてきます。
裏サイトを制限する事も大切なことですが、それだけで事態がよりよい方向に向かっていくとは期待できません。悪いことが起きないようにするだけではなくて、より良いことが生じていくことを大切にする必要があります。だから、裏サイトの制限に加えて、子どもが気兼ねせずに愚痴を言ったり、おしゃべりをしたりできるような場や関係をつくり、支えていく必要があると思います。
ブログパーツで、昔のドラクエ風のステータス画面が出るものをみつけてしまいました。早速サイドバーに貼り付けました。
昔、ファミコンの時代に、ドラクエ2とか3に、はまりましたね。ドラクエ2は、セーブができませんでした。終了するときに、「復活の呪文」という、50文字くらいもあるひらがなの文字の羅列をメモして終了し、次に始めるときに、それを入力するとこの前やったときのステータスから始められるというものです。1文字でも、間違っていると、「じゅもんがちがいます」と表示されて、パーになってしまうので、慎重にメモしましたね。
それから、ドラクエ2では、キャラクターがすぐに死んでしまって、しかも、生き返らせるのも大変でした。でも、そういうのが、割とおもしろかったような気がします。
すっかりはまってしまって、コントローラーのボタンを押す親指の皮がめくれて、血がにじんできました。ても、やり続けましたね。目もすごく疲れるので、レベルアップに励むときには、目をつぶってやってました。
なんか、懐かしいです。
あれほど、何かにのめり込んでしまうことは、いまはもう無理でしょうね。のめり込むだけの体力や気力もありませんので、のめり込みたいとはなかなか思えません。でも、そういうことがないということに、少し寂しさも感じます。
去年の秋頃は、いじめが原因と思われる自殺がニュースをにぎわしていました。
色々な対策が取られましたが、それからも、いじめの問題は、相変わらず多くの子どもたちを苦しめているとおもわれます。最近注目されているのは、学校裏サイトなどで、嫌がらせや悪口を書き込んでいじめをおこなうというものです。新聞記事などを見ると、サイトへの書き込みはかなり激しいものもあるようですが、個人を名指しして「キモイ」や「むかつく」というような書き込みもあるようです。
そのことから、ふと思い出したことがあります。
スクールカウンセラーの活動の一部として、相談室を休み時間や放課後に開放して、誰でも相談ではなくて、遊びやおしゃべりにきてもらうという活動をしていたことがあります。私はかってに「自由来室活動」と呼んでいました。なお、こういう活動は私は最近はやっていません。昔に比べて、時間数は変わらないのですが、担当する学校が増えてしまって、一つの学校にいる時間が少なくなりました。それで、子どもに直接関わるよりは、先生方とのコンサルテーションに時間を使うことが多くなってきました。また、援助ニーズの高い子どもたちへの直接的な関わりも増えてきたような気がします。そういうわけで、相談室を開放する自由来室活動は、最近やっていません。本当は、こういう活動こそ予防的な意味も大きいし必要だと思うのですが、目の前に見えている問題に関わるばかりで、手が回らないのです。
話はそれてしまいましたが、自由来室活動をやっていると、たくさんの子どもたちがやってきて、いろんな事をしゃべったり、訴えたりしていきます。そういう中にも、ほかの子どもについて、「うざい」とか、「きもい」とか私に言って来る子どもたちもいました。そう意味では、自由来室活動で子どもが私に「○○はキモイ。死んだ方がましだ」とか言ってくることと、裏サイトに同じような書き込みをすることは、どこかでつながっているなぁ、むしろ、基本的に同じだなぁと感じました。
人と関わっていて、いやな思いをしたり、苦しい思いをしたりすることは、ごく自然に生じてしまうことです。そういった否定的な感情をきちんと大切に扱っていくことが必要だと思います。
そういうことについて、大河原美以さんが、3冊目の本を書かれました。すばらしい本です。複数の子どもが絡み合う学校生活がストーリーとして再現されています。登場人物の何人かは自分の否定的な感情をきちんと大切にすることができず、他者を傷つけ、自分を傷つけるという形で、否定的感情が問題行動として現れてしまいます。子どもたち自身が、否定的な感情をきちんと大切にできるように、担任の先生がしっかり関わっていくプロセスが描かれています。
複数の子どもたちのストーリーは重なり合っています。そして、相互に影響しあいながら同時進行で、子どもたちへの関わりが進んでいきます。そういう点で、学校生活というリアルな日常でどのような関わりができるのかということに著者(大河原美以さん)が挑戦した本だと思います。スクールカウンセラーの立場として考えても、非常にリアルで説得力があります。そして、わかりやすく具体的で役に立つ本です。子どもの日常生活の中で、複数の子どもに関わっている人(学校の先生、学童保育の先生など)には本当にお薦めの本です。
私は誰にでも元気よく明るく挨拶をするということが苦手です。そういう挨拶をするのもされるのも、好きではありません。
挨拶は、人間関係の基本だと言われています。顔を合わせ、視線と声をやりとりする行為です。お互いがお互いの存在を認める行為だと思います。しかし、誰に対しても、同じように元気に明るく挨拶するというは、結局、相手の存在を認めていないということだと私は思います。
相手を見て、相手の存在を感じたら、他の人ではないその相手に対して、挨拶が生まれてくるはずです。それは、その相手・その瞬間だけのもののはずです。誰に対しても元気よく明るくという挨拶は、非常に辛辣に言えば、機械が機械に挨拶しているようなものでしょう。
10年以上前ですが、からだとことばのワークショップで、呼びかけるというワークをやったことがありました。自分が呼びかける場合には、きちんとその人に届くように呼びかけるということがほんとうに難しいものでした。自分が呼びかけられる場合には、私に呼びかけている人の声が、私のところまで届かずに、途中でぽとんと落ちてしまったり、私のからだを通り抜けてずっとずっと向こうまで突き抜けていったり、私のいる横をスルッと通り抜けて後ろの方まで行ってしまったり、というような不思議な感覚を味わいました。声と言葉がきちんと届くということは、大切なことなんだと思います。
誰にでも元気で明るい挨拶は、私にとっては、私の方ではなくて、あらぬ方向に飛んでいってしまうように感じられることが、すごく多いような気がします。
挨拶は、人間関係の基本ですから、相手を見て、相手を感じて、その相手の雰囲気に合わせて言葉が生まれてくるような挨拶が私には理想です。相手のからだにすとんと届くような挨拶をしたいものです。
余談ですが、カウンセリングの場面では、相手の体にすとんと届くように話した場合、相手を激しく揺さぶってしまうのではないか、と思うことがあります。特に学校の場合、相談室の一歩外は、学校生活という日常場面ですから、大きく揺さぶってしまうのは、来談者に大きな負担をかけてしまいます。だから、場合にもよりますが、相手の体にすとんと届くように言葉を使うことはほとんどないように思います。それよりも、私と相手の間にあるテーブルの上に言葉をそっとおくような感じで話すことが多いように思います。大切なことほどそんな風にして話したいと思います。
テーブルの上に置いてあれば、少しだけ手を伸ばせば、その言葉に手が届きます、そうしたら、その言葉を手に取って眺めてもらえるかもしれません。でも、必要でないならば、テーブルに置きっぱなしにして帰ってもかまわないでしょう。そして、もし、必要であれば、持って帰ってくれるかもしれません。
そんな風に、言葉を使いたいと思うことが多いような気がします。
話は挨拶に戻りますが、スクールカウンセラー(SC)にとっては、挨拶はほかにも難しい問題をはらんでいます。例えば、SCと関わりがある子どもにとっては、廊下でSCから挨拶されることは、一種の脅威ではないかと想像されます。
廊下をSCが歩いていて、向こうからSCのカウンセリングを受けている子どもが歩いてきたとします。SCがその子に挨拶をしてしまった場合には、その子は、SCの挨拶にかなりとまどったり、緊張したり、不安を感じたりする可能性が高いと思われます。カウンセリングの場面では、SCと来談者は、あるテーマやイメージを心理的に共有する関係を持ちます。その関係は、「深くて・親しくない関係」と言われるような関係です。その関係は、相談室という物理的構造の中に、さらにカウンセリングという枠組み(心理社会的構造)を成立させた上で生じる関係です。それらの構造によって守られることで、SCと来談者の関係性が保たれていると考えられます。廊下は、そういう構造によって守られた場面ではありません。だから、SCとその子ども(来談者)との関わりは、カウンセリングの場面とは違ったものになるはずです。また、ごく素朴に考えても、その子どもが「SCと関わりがあることを他の人に知られたくない」と思うことは、自然な成り行きです。その上「自分からSCに挨拶をしないと、SCから無視したと思われるかもしれない」とその子どもは不安を感じるかもしれません。挨拶するかしないかを巡って、その子どもを、不安や葛藤に陥れることにつながります。
つまり、SCが挨拶をした場合には、その事によって、SCとの関係を他者に知られるかもしれないという不安が生じたり、SCの雰囲気や関わり方がカウンセリングの時と違うことにとまどって不安を感じたりするかもしれません。反対に、SCが挨拶をしない場合にも、その子どもはSCが自分を嫌っているのではないかとか、無視されたとか、いろんな不安を感じたりするかもしれません。
こういった、SCとの関係の中で生じる様々な心の動きは、カウンセリングの場面で生じるのであれば、それについてきちんと一緒に考えていくことがカウンセリングのプロセスにとって非常に重要なことになります。「いまここで」生じていることにしっかりと関わっていくということがカウンセリングの基本原則なのです。しかし、廊下で挨拶をする・しないを巡って生じている心の動きには、関わっていくことはできません。もし、廊下で、SCから「挨拶をした方がいいかなぁとかちょっと迷ってた感じかな?」などと問いかけられても、子どもは迷惑でしょう。
そんなわけで、廊下で子どもと出会い、挨拶をするとか、しないとかいう問題は、意外にややこしい問題なのです。
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