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2006年9月 1日 (金)

映画 ゲド戦記

娘が友達といっしょに映画「ゲド戦記」を見てきてパンフレットを買ってきました。そのパンフレットに原作「ゲド戦記」の翻訳者の清水真砂子が一文を寄せていて、興味深く読みました。映画では原作と違ってアレンは父王殺しをしているのです、宮崎吾朗監督のオリジナルの設定なのです。そのことを清水真砂子は指摘し、「父親を殺して、さあどうするか。これもまたひとりアレンのあるいは監督の抱える問いではすまないはずです。」と述べています。また、プロデューサーの鈴木敏夫も、宮崎吾朗を監督に起用したことについて文章を書いています。これらを読んで、映画「ゲド戦記」も見なければならないなぁという気持ちが強くなってきました。
一方、現実の世界でも子どもが親を殺すという事件が相次いで生じています。物語の中のことと、現実を単純に結びつけてしまうのは、愚かなことかもしれませんが、いろいろと考えさせられてしまいます。子どもが親から自立していくとき、精神的に親殺しを行うという考え方があります。精神的な親殺しが上手くいかなかった時に現実場面で親を殺害してしまうということが生じるのかもしれません。たしか、「大人になることのむずかしさ」(河合隼雄)にそういう内容が書かれていたような記憶があります。
そんな風に考えていくと、宮崎吾朗監督にとって映画「ゲド戦記」は精神的な親殺しだったのかもしれないという連想が浮かんできます。
物語と現実は、複雑に重なり合い、多層的な意味を形成しているように思われます。一面的に切り取って分かったような気になることは、物語も現実も、そして、その両方を生きている自分自身も貶めてしまうことに繋がるようなきがしています。
ところが、子どもの起こす重大事件に関連して「増す重要性 スクールカウンセラー」という記事が岩手日報に掲載されていました(驚きです!)。子どもにとってカウンセリングが必要なのではなく、そばにいてしっかりと関わってくれる人が必要なのではないかと、思います。危機に瀕している子ども達の所には、きわめて幸運な例外を除いてスクールカウンセラーの手は届かないでしょう。スクールカウンセラーは元々遠くにしかいないのです。多くの大人がほんの少し手を伸ばせば、しっかりと身近な子どもに手が届くのではないでしょうか。
たぶん、そこから始まるのです。
魔法を使って命の本来の姿を歪め永遠に生きるという欲望をかなえることは決して許されないのです。心理臨床の専門性を使っても、人と人との自然な関わり合いの中で子どもが育つことを歪めてしまうのは許されないことのような気がします。
何かが起きてしまっている場所に外側から手をのばしそこに影響を与えるのではなく、何かが起きている場所で当事者がしっかりと関わり合っていくことこそ大切なように思います。スクールカウンセラーに出来ることはほとんどないのです。

ゲド戦記の原作者の新作です。読んでみたいと思います。

父王に目を封印されてしまった少年がでてくるようです。

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コメント

なんか・・染み入ります・・もどかしいところですよね。

心から感じ入りました。
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魔法を使って命の本来の姿を歪め永遠に生きるという欲望をかなえることは決して許されないのです。心理臨床の専門性を使っても、人と人との自然な関わり合いの中で子どもが育つことを歪めてしまうのは許されないことのような気がします。
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このことのために一度日本をぶっ潰すほどの動きがほしいとづっと思っています。
専門家の方がこのような思い切った発言をされることに感激しました。

きょうはいちぼんは映画みたいなblogしなかったー。
ここにいちぼんとblogしなかったー。

いちぼんが、広いパンフレットとかをゲドしたかったの♪

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