大きいうちとかをBLOGしなかった(BlogPet)
今日、パニたちが、大きいうちとかをBLOGしなかった
パニが、ネットで大きいうちとか、広いうちと、大きいうちと、ネットで広いうちとかをBLOGしなかった
と、いちぼんが言ってたよ♪
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パニ」が書きました。
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今日、パニたちが、大きいうちとかをBLOGしなかった
パニが、ネットで大きいうちとか、広いうちと、大きいうちと、ネットで広いうちとかをBLOGしなかった
と、いちぼんが言ってたよ♪
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パニ」が書きました。
このまえ、うちの下の子(4歳:男)が突然聞いてきました。
子「どうして○○君ってなづけたの?」
私「・・・!!」
子「どうして○○君ってなづけたの?」
私「えーと、かっこいい男の子になりますようにって、願いを込めてつけたんだよ」
注:本当はそうでもないのですが、下の子は「かっこいい」ということに、非常に強く価値をおいているので、そう言ってみました。
子「○○君は自分の顔、好きじゃないんだよ。」
私「・・・。」
子「だから、別の子になるから、その子に、○○君って名付けてね。」
私「・・・。」
そのあと、下の子の事がすごく大切であること、顔もお腹も足も手も鼻も口も髪の毛も全部大好きだと真剣に伝えてみました。
子どもの「名付けた」という言葉に驚きましたし、それ以上に、4歳にして、自己否定的な傾向を持ってしまったのかと、妙に心配になりました。
「スクールカウンセリングモデル100例―読み取る。支える。現場の工夫。」という本を読みました。
なかなかすごい本だと思います。100のケースが「モデル」として書かれています。きれい終結したケースばかりではなく児童・生徒が転校して、連絡が取れなくなったり、相談室に来談しなくなったりして、自然に消滅のようなケースもいくつも書かれています。、また、援助の場や援助の対象となる人が変わったりしているケースも多いです。いわゆるクリニックタイプの心理臨床とは全く異なる実践のリアルな雰囲気が伝わってきます。心理療法やカウンセリングという枠組みから援助を行うのではなく、子どもたちの生活の場の中で心理臨床のスタンスからできることを積み重ねてきたという実践の集積でしょう。
読後感が、いわゆるケースレポートとは違う感じで、そこがまたおもしろかったです。すっきりはっきりと何かが分かったような気になることがあまりできません。消化できないような、とらえどころがないような感じが残って、澱のように心に沈殿していくような気がします。この読後感は、「聊斎志異」という中国の妖怪物語を読んだときの読後感に共通する感じがありました。割り切れないものものを、切り捨てずに存在を認め受け入れていくというスタンスが共通なのかもしれません。それが生きていくことの現実なのかもしれないと思います。
どうも私は、きれい・はやい・うまいを売り物にして、人々の生きようとする営みをシステムとして眺める立場の本からは、「こうすれば簡単なのに、どうしてこうしないの?!」という蔑みの臭いを嗅ぎ取ってしまいます。また、正しさと効果を売り物にして、明確なターゲットを定めそこにきちんとした手続きで関わっていく立場の本からは「こうじゃなければ、それはおかしい」という非難の臭いを嗅ぎ取ってしまいます。この本は、そうではありません。もちろん、それらの本に書かれていることは、非常に勉強になり、役立つこともたくさんあります。きちんとそれらから多くを学ぶ必要があります。しかし、この本には、それらの本にはない、学校という場で生きているという実感をしっかりと支えてくれる感じがあります。
この本の中には、スクールカウンセラーとしての私ではなく、一人の親としての私の物語が、こっそりと紛れ込んでいても許されるのではないかと思いました・・・。
いちぼんが
こないだ、いちぼんが心理映画の専門性が最も厳しく試されるのは、心理映画の心理では.
って言ってたけど…
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パニ」が書きました。
今日、いちぼんが
心理臨床のちょっと性が最も厳しく試されるのは、心理臨床の場ではなく、私自身の人生の.
っていってたの。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パニ」が書きました。
こないだ、いちぼんが
心理映画の専門性が最も厳しく試されるのは、心理映画の場ではなく、私自身の人生の.
とか考えてたよ。
*このエントリは、BlogPet(ブログペット)の「パニ」が書きました。
娘が友達といっしょに映画「ゲド戦記」を見てきてパンフレットを買ってきました。そのパンフレットに原作「ゲド戦記」の翻訳者の清水真砂子が一文を寄せていて、興味深く読みました。映画では原作と違ってアレンは父王殺しをしているのです、宮崎吾朗監督のオリジナルの設定なのです。そのことを清水真砂子は指摘し、「父親を殺して、さあどうするか。これもまたひとりアレンのあるいは監督の抱える問いではすまないはずです。」と述べています。また、プロデューサーの鈴木敏夫も、宮崎吾朗を監督に起用したことについて文章を書いています。これらを読んで、映画「ゲド戦記」も見なければならないなぁという気持ちが強くなってきました。
一方、現実の世界でも子どもが親を殺すという事件が相次いで生じています。物語の中のことと、現実を単純に結びつけてしまうのは、愚かなことかもしれませんが、いろいろと考えさせられてしまいます。子どもが親から自立していくとき、精神的に親殺しを行うという考え方があります。精神的な親殺しが上手くいかなかった時に現実場面で親を殺害してしまうということが生じるのかもしれません。たしか、「大人になることのむずかしさ」(河合隼雄)にそういう内容が書かれていたような記憶があります。
そんな風に考えていくと、宮崎吾朗監督にとって映画「ゲド戦記」は精神的な親殺しだったのかもしれないという連想が浮かんできます。
物語と現実は、複雑に重なり合い、多層的な意味を形成しているように思われます。一面的に切り取って分かったような気になることは、物語も現実も、そして、その両方を生きている自分自身も貶めてしまうことに繋がるようなきがしています。
ところが、子どもの起こす重大事件に関連して「増す重要性 スクールカウンセラー」という記事が岩手日報に掲載されていました(驚きです!)。子どもにとってカウンセリングが必要なのではなく、そばにいてしっかりと関わってくれる人が必要なのではないかと、思います。危機に瀕している子ども達の所には、きわめて幸運な例外を除いてスクールカウンセラーの手は届かないでしょう。スクールカウンセラーは元々遠くにしかいないのです。多くの大人がほんの少し手を伸ばせば、しっかりと身近な子どもに手が届くのではないでしょうか。
たぶん、そこから始まるのです。
魔法を使って命の本来の姿を歪め永遠に生きるという欲望をかなえることは決して許されないのです。心理臨床の専門性を使っても、人と人との自然な関わり合いの中で子どもが育つことを歪めてしまうのは許されないことのような気がします。
何かが起きてしまっている場所に外側から手をのばしそこに影響を与えるのではなく、何かが起きている場所で当事者がしっかりと関わり合っていくことこそ大切なように思います。スクールカウンセラーに出来ることはほとんどないのです。
ゲド戦記の原作者の新作です。読んでみたいと思います。
父王に目を封印されてしまった少年がでてくるようです。
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