« わがまま | トップページ | 蛙 »

2006年3月27日 (月)

心理臨床の専門性

以前に紹介した「ちゃんと泣ける子に育てよう」という本の著者大河原美以さんが、家族心理.comで、インタビューを受けています。

「これから家族療法を学ぼうとしている学生の皆さんに一言お願いします。」との質問に以下のように答えています。

頭でっかちにならないでいられることってすごく重要だと感じています。臨床を学ぶためには、身体感覚として自分の感情と、相手の感情をともに感じていられるという身体性があって、はじめて成立するものだということを、カウンセラー教育に携わる中で、切に感じています。その身体感覚を大事にすることができると、感情に対するセンサーをさびつかせないでいられるのではないかと思います。知識はたくさんあっても、感情に対するセンサーがさびてしまっていると、援助関係が成立しませんし、知識と技法で他者を援助したいと思う気持ちが、他者より優位になりたいという無意識の願望であったりするので、自分の感情をみつめるということを大切にしてもらいたいと思っています。これは、家族療法に限ったことではなく、臨床の基本なのですが、特に家族療法やブリーフセラピーはその技法に魅力・特徴があるので、あえて、強調したいと思います。

大切なことがすごく分かりやすく伝わってくるような気がします。

身体感覚として自分の感情と、相手の感情をともに感じていられるという身体性

これって、心理臨床家やカウンセラーに限らず誰でもが、もともと持っているはずのものですね。大河原さんが言っているように、これがなければ、援助関係が成立しません。その上で、「知識や技術」が生きてくるのだということですね。

これからは、勝手な連想ですが…。
仏教では、全ての人はもともと仏性を持っているとされています。それなのに、なぜ僧は悟りを開くために修行を積まなければならないのでしょうか?
こんな疑問を道元が若い頃に持ったそうです。たしか、高校の倫理社会の資料集に書いてありました。20年以上も前のことですが、それを妙に印象的に覚えています。

道元はその疑問を解決し、「修証一如」ということを言ったそうです。つまり、修行と悟り(証)は分けることができないということです。これは、おそらく修行するから悟れるとかいうことではないんですね。修行の結果悟りが得られる(修行→悟り)ということではないんです、たぶん。修行というプロセスそのものが悟りであるということですね。だから、悟りを得た後でも修行を続けなくてはならないのでしょう。

さて、連想は、心理臨床の話題へと戻りつつ発展するのですが…。
上で紹介した大河原さんの言葉をを突き詰めていくと、『「身体性」と「知識・技術」は不可分である(分けることができない)』というところに到達するのではないか、と私は想像しています。

心理臨床の専門性は、『「身体性」と「知識・技術」は不可分である』というところにあるのではないかと、私は思うのです。

書き終わって、読み返してみると、何か、妙に分からないケド…。

« わがまま | トップページ | 蛙 »

コメント

 こんにちは。
サイトのインタビューを取り上げていただき、ありがとうございます。

 確かにブリーフセラピーは技法が注目されがちですが、第一人者のデモンストレーションなどをみると、自分の、そしてクライアントも持っている「身体性」にも、非常につよく着目しています。
 
大河原先生もそうですが、同じサイトインタビューの亀口憲二先生、長谷川啓三先生も、煎じ詰めれば似たようなことを言っているのですよ。おもしろいですね。

お願いなのですが、このエントリのコメントを大河原先生にご紹介してもいいでしょうか。匿名等配慮いたします。

【家族心理.com】管理人様
コメントありがとうございます。
大河原さんに紹介しようと思っていただけるとは、光栄です。大河原さんが、このブログを見てくださっているとは思えませんが(お忙しいため)、私のことも(おそらくこのブログのことも)知っておられるので、匿名云々ということは、全く問題ありません。

せっかく、好意的なコメントをいただいたのですが、余計な反応をしておきます。
>自分の、そしてクライアントも持っている
>「身体性」にも、非常につよく着目しています。
と書いていただいた点ですが…。注目という言葉が、ちょと喉越しが悪い感じですね。

「身体性」は注目しちゃ、いかんのじゃぁないか…、と思います。もちろんその身体性をしっかり感じ取って捉まえておくことは大切なのですが、注目という時点で、対象化されている度合いが強すぎるような気がします。「身体性」は「生きる」とかいう言葉が似合っているように思うんですが…。

そういえば長谷川啓三先生も(ここで、長谷川先生が言っていることを引き合いに出しておくのは、ちょっと意地悪な感じがして、わくわくしますが…。)家族心理.comのインタビューで、ナラティブセラピーではいちいち言語化してしまう(つまり、対象化しているわけですが)ことがもったいないと、おっしゃっておられますね。

リコメントありがとうございます。
 大河原先生とはお互いご存知なんですね。コメントの件ご紹介させていただきます。

 大河原先生の言っている身体感覚の意味は、「カウンセラー側」の色が強いですが、私や長谷川先生、亀口先生が強調しているのは、「クライアントの身体感覚」です。クライアントの身体感覚を、非言語や口調、雰囲気をよく観察して推測していくことに「注目」するとうことです。
 たとえば亀口先生なら、最近「粘土」がお好きですが、「険悪だった夫が粘土をさわっていくとしばらくこねているうちにふわっとしていくんですよ。ふわっと。そしたらなんか妻との会話に展開ができたり」と述べています。

 確かに、ベテランのセラピストなら身体性を「ふんわり感じておく」ということはできるかもしれません。しかし大学教員というのは、院生にトレーニングしなければなりませんので、いきなりそれを言ってもしょうがないというところがあります。
 よって「大事なことを切り取って焦点づけ注目させる」のは教育や研究の一環です。長谷川先生も、トレーニングの一環で「クライアントの視線・話すトーン、雰囲気」に注目させ、研究させます。
 それだけトレーニングをされても、実際の面接では、やはり(日本人であっても)話されていること>身体感覚になりがちなところがあると思っています。対象化する度合いを強くすることで、「ちょうどよくなる」ところはあると思いますよ。
 また、対象化することと「言語化」することとは、また異なる話と思っています。

 ちょっとディスカッションの様になってきましたね(笑

【家族心理.com】管理人様
再びコメントありがとうございます。なんか、とんちんかんなことを言ったのかなぁとか心配になったりもしましたが…(ちょっと当たっている…)。コメントいただいて、ちょっとまた内側に動きが出てきたりして楽しいです。
【家族心理.com】管理人様とは、いっていることが微妙にずれていた感じがしますね。身体性・身体感覚…。…微妙に違いますね。

しつこいのですが、やっぱり「注目する」はキツイ気がします。ボクが、クライエントだったら、注目されるのは、イヤですね。苦しいなぁ…。
ボクの感覚で行くと、「注目する」は、【人差し指を出して、対象に向けて指さしをして、その方をじっと見ている】感じです。ボクだけの勝手な感じかもしれませんが…。
面接の時にしっかりと相手の雰囲気(身体性だけではないのかもしれません)、プレヴァーバルな雰囲気を感じ取れているときのことをイメージすると。自分の足下から、自分の透明な一部分がしみ出すように面接の場に広がっていて、そこを通して何かが伝わってきているような感じです。こう書くとちょっと気持ち悪いですね。ナウシカ(マンガの方)に出てくる粘菌を思い出しました。

ところで、全く話がそれるようです(そうでもないが…?)が…。今日は「BOKU」と入力すると「ボク」と変換されます。いつもは、「僕」と書いていたのかどうかもよく分かりませんが…。「ボク」と変換されることが妙に楽しいです。パソコンがボクの気分を感じ取りしっかりとそれに応えてくれているようで、「ボクは…」「ボクも…」と連発したくなって来ています。

多分、またどこかでかみ合っていないのかもしれませんね。でも、しっかりかみ合って進んでいく議論よりも、すれ違いながら、ずれていきながら、それでもそのプロセスで何か新しい価値(!)がお互いの中に生まれてくるような、やりとりが私は好きですねぇ…。「あっ あのこと思いだした」とか、「これって、面白くない」とか脇道に一杯それていく感じですね。

子どもの安全を大切にすると下校の道草があり得なくなってきましたね。それって、子どもの生活が貧しくなって行くことにつながらないかなぁと心配です。

何で、こんなにごちゃごちゃ書いてるんでしょうね(これもゴチャゴチャだ…。)。それも意味があるのか、ないのか、…。

ichiro_hさん:

はじめまして。salaと申します。
ichiro_hさんのホームページでこのブログを知りました。


>今日は「BOKU」と入力すると「ボク」と変換されます。いつもは、「僕」と書いていたのかどうかもよく分かりませんが…。「ボク」と変換されることが妙に楽しいです。パソコンがボクの気分を感じ取りしっかりとそれに応えてくれているようで、「ボクは…」「ボクも…」と連発したくなって来ています。

こんなichiro_hさん、好きです。お姿を想像して、ワタクシまで妙に楽しくなってしまいました。


>しっかりかみ合って進んでいく議論よりも、すれ違いながら、ずれていきながら、それでもそのプロセスで何か新しい価値(!)がお互いの中に生まれてくるような、やりとりが私は好きですねぇ…。「あっ あのこと思いだした」とか、「これって、面白くない」とか脇道に一杯それていく感じですね。

私も、です。でもあまりないな、そんな機会。ただ生活してるだけだからからかな。


>子どもの安全を大切にすると下校の道草があり得なくなってきましたね。それって、子どもの生活が貧しくなって行くことにつながらないかなぁと心配です。

この部分、コメントを書くきっかけとなりました。20年たったら…と考えると怖い、彼らも親になりますから。私はこの1年小学校の様子を見てきて、辛かった。苦しくて…こんなコト誰も気にしてない。見ない振りさえ出来れば…と何度も思いました。先生・親等大人の態度や感覚に対する違和感、あるいは拒絶反応だと思うのですが…言葉が続きません。

ichiro_hさんの処へは、私が一番苦しく感じていた時期を過ぎようとしていた頃、もう今以上苦しくなってはいけないと思いネットでスクールカウンセリングを検索し辿りつきました。海で海草に絡まれたような私の気持ちを何度もichiro_hさんの言葉にほぐしていただいてます。

これからも宜しく。応援しています。sala

salaさん コメントありがとうございます。
前のホームページから来ていただいたんでしょうか? ありがたいなあと思います。

お返事が遅くなってしまったのですが、
また、ぜひコメント下さいね。

応援ありがとうございます。

salaのコメントは全てスパム扱いにしてください。お願いします。
ご迷惑をおかけして、すみませんでした。

salaさん コメントありがとうございます。
スパム扱いにはできませんよ。

最近、恐ろしく忙しくてブログの方はほったらかしにしてしまっていました。
失礼しました。

これからも、のんびり更新したり、コメントしたりしていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

おはようございます。

月 見え無くなっちゃいましたね。
実物を確認できないのが残念。

リコメントありがとうございます。

23日は、午前中にカウンセリングをうけ、
「(私の想いは聞きいれてもらえそうに無いから)
次(のカウンセリング)はもうないのだろうなぁ」
と感じていた時でした。

だから、いちぼんさんのお返事に気がついたときは
「いちぼんさんがsalaのところにかけて来てくれた...」
という感じがして、とても嬉しかった。
ありがとう。

>これからも、

そーですね。今までもそうだったのでしょう。
私の視界、そーとー狭くなっていたみたい。
そこまで 気がつかなかった。

私ものんびり、いきたいと思います。
こちらこそ、宜しくお願いします。sala


この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 心理臨床の専門性:

« わがまま | トップページ | 蛙 »