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2006年3月

2006年3月31日 (金)

ボク と 僕

今日、コメントをいただいて、それにコメントを返していました。そこで、面白い体験をしたので、記事にしてみます。

今日は「BOKU」と入力すると「ボク」と変換されていました。違和感なく「ボク」と書いていたのですが、途中でふと気づきました。今日は、「ボク」と変換されることが妙に楽しい感じがします。パソコンがボクの気分を感じ取りしっかりとそれに応えてくれているような感じです。文章を書きながら、「ボクは…」「ボクも…」と連発したくなって来る気分も感じてきました。

「パソコンがボクの気分を感じ取り、それを的確に漢字変換に生かしてくれた」わけではありません。ただ単に前回変換したときに「ボク」と変換させたことが残っているだけです。


デジタル機器ではない昔ながらの道具は、「手に馴染む」と言われています。使っている人の今日の気分や雰囲気がその道具の使い方に無意識的に出てくるわけです。それに道具が的確に応えてくれるんですね。このプロセスは、いちいち意識しなくても、自然に進んでいくわけです。人間の方も、この関係を「体」で覚えているわけです。

デジタル機器は、そうはいきません。いちいち意識化して、判断し選択して道具を使っていきます。そのプロセスは繰り返される作業ではかなり自動化されますが、それは、頭がデジタル機器に合わせてあげているだけです。昔ながらの道具は、「手」に馴染んでくれることと、正反対です。

技術か進んでいくと、あたかも手に馴染んでくれるかのようなデジタル機器が登場するかもしれませんね。人間に意識の領域で余計な仕事をさせないわけです。余計な仕事というのは、つまり道具を使うことについて脳のパワーを使うことです。人間は道具を使って何かを行います。道具は手段で、目的は別にあります。道具を使うことに脳のパワーをそそがなければならない場合(初めてワープロで文章を打つとか)には、その道具が本来の目的を達成することを邪魔してるわけですね。
手に馴染んでくれるかのようなデジタル機器は、たとえば、パソコン(ワープロ)であれば、キータイピングの強さや早さ・リズム、文字を訂正する頻度などを情報として取り込みます。それは、文章を書いている人の気分や雰囲気をある程度反映しているはずです。その情報をもとに、漢字変換の候補の順序を調整するわけです。その際には、過去のデータと照らし合わせていくわけですね。現在は、文章の内容(言語的な情報)に応じて、漢字変換の候補の順序が調整されているのだと思います。それに加えて、キーの打ち方(非言語的な情報)という情報も活用するわけですね。
これって、なかなか面白いと思いません? ジャストシステムさんどうでしょう? 是非実現してください(私は一太郎、ATOK派なので)。

ここまで、余談だったのですが。カウンセラーがクライエントにとって道具だとすると、クライエントの手に馴染んでくるカウンセラーっていいですね。というか最低限度として大切ですね。

2006年3月27日 (月)

もうすっかり春なので、テンプレートを変えてみました。
ウォームビズのテンプレをやめて、
最初に使っていた、水辺の蛙のテンプレートにしました。
このテンプレートは私のすごくお気に入りです。
蛙がカワイイです。

でも、チーム・マイナス6%はやめません。
やっぱり、地球温暖化はくい止めないと、と思います。
CO2削減しましょう。
右上のバナーからチーム・マイナス6%にジャンプしてみてください。

心理臨床の専門性

以前に紹介した「ちゃんと泣ける子に育てよう」という本の著者大河原美以さんが、家族心理.comで、インタビューを受けています。

「これから家族療法を学ぼうとしている学生の皆さんに一言お願いします。」との質問に以下のように答えています。

頭でっかちにならないでいられることってすごく重要だと感じています。臨床を学ぶためには、身体感覚として自分の感情と、相手の感情をともに感じていられるという身体性があって、はじめて成立するものだということを、カウンセラー教育に携わる中で、切に感じています。その身体感覚を大事にすることができると、感情に対するセンサーをさびつかせないでいられるのではないかと思います。知識はたくさんあっても、感情に対するセンサーがさびてしまっていると、援助関係が成立しませんし、知識と技法で他者を援助したいと思う気持ちが、他者より優位になりたいという無意識の願望であったりするので、自分の感情をみつめるということを大切にしてもらいたいと思っています。これは、家族療法に限ったことではなく、臨床の基本なのですが、特に家族療法やブリーフセラピーはその技法に魅力・特徴があるので、あえて、強調したいと思います。

大切なことがすごく分かりやすく伝わってくるような気がします。

身体感覚として自分の感情と、相手の感情をともに感じていられるという身体性

これって、心理臨床家やカウンセラーに限らず誰でもが、もともと持っているはずのものですね。大河原さんが言っているように、これがなければ、援助関係が成立しません。その上で、「知識や技術」が生きてくるのだということですね。

これからは、勝手な連想ですが…。
仏教では、全ての人はもともと仏性を持っているとされています。それなのに、なぜ僧は悟りを開くために修行を積まなければならないのでしょうか?
こんな疑問を道元が若い頃に持ったそうです。たしか、高校の倫理社会の資料集に書いてありました。20年以上も前のことですが、それを妙に印象的に覚えています。

道元はその疑問を解決し、「修証一如」ということを言ったそうです。つまり、修行と悟り(証)は分けることができないということです。これは、おそらく修行するから悟れるとかいうことではないんですね。修行の結果悟りが得られる(修行→悟り)ということではないんです、たぶん。修行というプロセスそのものが悟りであるということですね。だから、悟りを得た後でも修行を続けなくてはならないのでしょう。

さて、連想は、心理臨床の話題へと戻りつつ発展するのですが…。
上で紹介した大河原さんの言葉をを突き詰めていくと、『「身体性」と「知識・技術」は不可分である(分けることができない)』というところに到達するのではないか、と私は想像しています。

心理臨床の専門性は、『「身体性」と「知識・技術」は不可分である』というところにあるのではないかと、私は思うのです。

書き終わって、読み返してみると、何か、妙に分からないケド…。

2006年3月 3日 (金)

わがまま


10月さんのブログで、こんなことが書いてありました。

 ぼくが、このクラスで、実現したかったことは、みんながワガママを言えるようなクラスになってもらうことでした

 こういう目標を持つこと自体がすごいと思います。しかも、これを、生徒の前で言うところがすごいですね。絶賛したい気分です。

ところで、
小中学校だと、教室の前に、学級目標とか、学校の目標みたいなものが貼ってありますよね。
例えば

つよい子
  じょぶな心と体で、がんばりぬこう

やさしい子
  思いやりの心をもち、助け合おう

かんがえる子
  進んで考え、学びつづけよう

とかいう感じです。
そこに、

わがままな子
  自分の気持ちや考えを遠慮せずぶつけよう

とか、書いてあると面白いだろうなぁと、考えるだけで、うきうきしてきます。

子どもがちゃんとわがままを言えるようになってきたら、先生も子どもにわがままを言えるようになると良いですね。わがままが言い合える関係って、ステキです。

そういえば、私も、クライエントに遠慮なくわがままを言ってもらえるカウンセラーになりたいものです。

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