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2005年12月

2005年12月30日 (金)

ミレナリオと、すれちがい通信

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ミレナリオの画像をのっけてみます。たまには、写真でも載っけたいと思ったので…。子どもを連れて行ってきたのですが、非常に遠回りして並んで、2時間も少しずつ歩いて待たなくてはならないとは思いませんでした。でも、ミレナリオの会場近辺は、私の生きている世界とは基本的に無縁な場所で、こういうコトもないと、一生ここを通ることも無かっただろうなぁと思ったりもしました。周囲を見ると、若いカップルもいるし、小さな子どもを連れた家族もいるし、熟年の夫婦もいるし、色んな年齢層の方が来られていて、なかなか、こういうバラエティに富んだ人達が一同に集まるコトってあんまり無いかなぁとか思ったりしていました。
 帰ってきて、ブログを検索してみると、たくさんの人がご自分のブログにミレナリオの画像を載せていました。でも、どの画像も、基本的には同じですね。同じ物を見たのだから当然といえば当然ですが…。でも、「ディズニーランドに行ったよ」とかいう写真の方が多様ですね。それだけ、動きない変化のないものを見てきたのだなぁと思いました。とか、考えると写真を載せる意味を感じなくなってくるのですが…。

ミレナリオを見る前に、東京駅丸の内南口付近に、「どうぶつの森」のすれ違い通信の中継所があるというので子どもと行ってきました。でも、特になんということもなく、ちょっとガッカリでしした。そのまま「すれ違い通信」を続けていたら、駅の別の場所で、「すれちがい通信」に成功し、メッセージボトルが流れ着いて、他の村の果物(リンゴ)をゲットしました。といっても、娘のほうで、(ゲームの世界で)同居している私には、メッセージボトルは流れてきませんでした。ガッカリです。私は、釣った「ながぐつ」をメッセージボトルにくっつけて流したのですが、だれか受け取ってくれたのでしょうか?
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2005年12月28日 (水)

漢方薬は…

一つ前の記事で紹介したお話の出所はここでした。
長くなりますが引用します。
こんなに長く引用してもかまわないものでしょうか?

対談 精神科における養生と薬物」(神田橋條治・八木剛平 診療新社)p104

(前略)漢方の薬は、ダーティもいいところなんです、一つの生薬の中に何種類ものアルカロイドがあって、そいつをいくつも組み合わせて使うんですから、もう何がなんだか分からないですね。しかし、漢方の場合、例えば五苓散という利尿剤として使われている方剤が、浮腫があるときには利尿剤として作用するけど、浮腫が消えると全然効かないんです。五苓散という利尿剤は、結局生体が何らかの形でそれを活用したいときは使うけども、したくないときは使われず、ただの雑物みたいにあしらわれている。(後略)


神田橋條治著作集 発想の航跡2」(神田橋條治 岩崎学術出版社)p336

(前略)そうすると思いつくのは漢方だよ、漢方なんてのはダーティでしょう。それに漢方って面白いんだよ。五苓散という利尿剤がある。それを飲ますと、むくみのある人は小便がどんどん出て、むくみが取れる。西洋の利尿剤だと、ずっとそのまま飲ましておけば、体が干からびる。小便が出て、かさかさになる。漢方はそんなことないのよ。いっくら飲ましても、一定量尿が出てしまえば後は効かない。もっとすごいのはね、血圧が上がってるから飲ましてると下がってきて、下がりすぎるかと思ったらまたちょっと上がったりして、ちょうどいいようにするの。漢方にそんな威力があるわけではなくて、漢方は雑多なものが、いろいろごちゃごちゃ混ざってる。それを投与していると、生体がいいとこどりで、自分の役に立ちそうなところだけ効果をとって、よくなっているに違いないのよ。そうすると、心の治療とか、ある環境の設定とか、何かできるだけその生体が行きたがっている方向に、こちらが添って援助してみようとかいうやつは、漢方医療的治療になるんじゃないか。(中略)
 それから、できるだけ雑多なものがいいんだとしたら、いちばん雑多なのは何だろうな、畑仕事とか山仕事とか、あんなのがいちばん雑多かな。まあ、分からんけど、できるだけ何か目的がいい加減なような、あ、遊ぶとかそうだよな。そうすると、描画というものの中にある遊び性というものが非常に治療に役だっているんだとすると、描画療法がきちんとしたデータが出るようなものにならないことを祈るや切、というようなことにもなるわけ。だいたいそれで今日話そうと思っていたことは終わりました。(後略)

私が書いていることって、神田橋條治の言っていることの受け売りとか、縮小再生産とかそんな感じですね。
コピーを重ねると像がぼやけてハッキリしなくなってしまうのを連想しました。


2005年12月27日 (火)

漢方薬としての言葉

リンク: ~ 永遠の少年 ~: 「言葉」の座標軸.

言葉の持つ働きとして、「切る」「抱える」「刺激する」「おさめる」という4つが取り上げられていました。この4つに関連して、10月さんは、今まで考えていたことよりも、もっと複雑なんだなぁと言う感想を持たれたようです。

そのことに関連して、いくつか連想が浮かんできたのですが…。

どの文章で読んだのかもうはっきり記憶になく、手近にあった本などをあさってみたけれど、発見できなかったのですが…。

漢方薬には、反対の作用を及ぼす成分が含まれているそうなのです。漢方薬は色々な生薬を組み合わせてそれを煎じたりしてつくる(らしい)のです。だから、ある漢方の薬には、色々な作用を起こす物質が非常に沢山含まれているわけです。この辺は、普通のお薬(西洋薬)とは決定的に違うわけです。西洋薬は、ある1つの症状を抑えるのに効果的な1つの種類の物質を薬として利用するわけです。
そして漢方薬には、反対の作用を及ぼす成分が含まれている(こともあるカナ?)そうです。例えば、利尿作用をもつ漢方薬には、物質としてみていくと、利尿作用を持つAという物質が含まれているのですが、抗利尿作用を持つBという物質も含まれているというのです。
西洋薬では、利尿作用を持つある物質を1種類だけを薬として利用するわけです。適切にのむと、的確に働くわけです。でも、飲み過ぎてしまった場合には、体は脱水状態になっているのに、まだ尿を出そうと働いてしまうそうです。
でも、漢方薬を飲むと、そういうことにはなりにくいそうです。

そういう話をどこかで読んで非常に印象に残っています。(でも、以上は、私の記憶に基づいているので、どこか間違いがあるかもしれません。)

さて、私はSCとして主として言葉を使って被援助者に働きかけるのですが、言葉を使うときに、漢方薬のような特徴を大切にするのか、西洋薬のような特徴を大切にするのか、大きな分かれ道だと思いました。
10月さんの記事を読んでそういうことを思い出しました。

言葉が多様な働きを含み、全体として穏やかに相手を支え刺激していく、そういうふうな言葉の使い方をしていきたいなあと感じています。

2005年12月21日 (水)

言葉が私の中に響かせてくれる色の感じ

リンク: ~ 永遠の少年 ~: 言葉の持つ「色」.

言葉が私の中に響かせてくれる色の感じ

言葉は、系統発生的(進化的)にも個体発生的(発達的)にも、コミュニケーションの手段として生まれてきたと考えてもかまわないと思います。決して思考の道具として生まれてきたのではないでしょう。それを人間は思考の道具として活用しているに過ぎないと考えてみると面白いと思います。しかも、原始的な言葉が担ってきたのは、言語的なコミュニケーションではなく、非言語的なコミュニケーションでしょう。妙なパラドックスですが…。

赤ちゃんとお母さんが見つめ合いながら、「あー」とか「うー」とか言い合っているのを想像してください。そこで発音されている「あー」とか「うー」とかいう音には言語的な意味・内容はほとんど含まれていません。でも、コミュニケーションが生じていないわけではなく、むしろ、非常に濃密に情緒的な交流が生じていると考えられます。そして、そのうちに、子どもは意味のある単語を言うようになります。言葉が「あー」から「ママ」に変わったからといって、濃密に生じていた情緒的な交流が失われてしまったわけではなく、それはほとんどそのままのはずです。つまり、非言語的な交流に、すこしづつ言語的な交流が付け加わってくるのでょう。

つまり、発達のごく初期には、言葉は事実や概念という言語的な内容を伝えるというコミュニケーションを担っていたわけではないといえます。言葉は非言語的なコミュニケーションのごく小さな一部分として機能してきたのです。

よくコミュニケーションが大切と言われますが、大切なことは、議論や話し合いではなく、お互いの気分や感覚といった言葉にはならない何かが行き交うことではないかと思います。メールやブログのような活字の媒体では、この部分がほとんど抜け落ちてしまうために、コミュニケーションがひじょうに難しくなってしまうのだと思います。

10月さんが、言葉の色という記事を書かれました。言葉が伝えているものは、その言葉の内容だけではなく、その言葉が持っている色のようなものもあるのだと思います。その事を私なりに考え上のような記事を書きました。そのなかで、ふと、言葉が色をもっているというよりは、私が勝手に(!)色を感じてしまうんだなぁと思いました。だから、言葉の色というのは、「言葉が私の中に響かせてくれる色の感じ」なんだろうなと、私なりには思いました。「言葉が私の中に立ちのぼらせてくれる匂いの感じ」とか味や手触りもありますね。

2005年12月20日 (火)

捨てないで抱え続けること

ナウシカが腕には赤ちゃんを抱え、背中には、銃をかつぎ、大きな背嚢を背負って歩いている絵があります。(記憶を元に書いていますので若干の間違いがあるかもしれません。)私は時々この絵を思い出します。

銃をかつぎ赤ん坊を抱える姿はある意味ショッキングなものかもしれません。しかし、これは矛盾と葛藤を抱えつつ、それでも歩いていこうとするナウシカの強さが表現されているように感じます。宮崎駿はこの絵を描いてナウシカがどういうことをしようとしているのかが分かった気がするというようなことをこの絵にコメントしていたように記憶しています。

話は変わりますが、最近、「ハウルの動く城」を見ました。ソフィーは出会った人をなぜかハウルの城まで連れて帰ってしまうのです。ハウルの命をねらっていた荒れ地の魔女や、ハウルと対立しているサリマン先生の犬のヒン、正体不明のかかしのカブです。みんな一癖も二癖もありそうなキャラクターばかりです。そこが、ソフィーのスゴサであり、事態に押しつぶされずに生き抜いていく力かもしれません。

そういえば、「千と千尋の神隠し」の千尋もなぜか、カオナシと坊ネズミとハエドリをつれて、銭婆婆のところまで出かけています。これらのキャラクターは千尋にとっては味方ではありません。色々と嫌な思いをさせられてきているのです。でも、千尋は彼らとの関係を切らずに受け入れているのです。

出会ったものを捨てずに受け入れ抱え続けていくことは、簡単なことではありません。それらは必ず対立や矛盾、葛藤をはらんでいます。それでも、それらを抱え続けていくことが生きていくことなのかもしれません。簡単なことではありませんね。

紹介したナウシカの絵はたぶんこの画集に含まれていると思います。

2005年12月19日 (月)

言葉を獲得する以前の記憶

10月さんの記事を読んでいて不意に思い出したのですが…。

子どもがまだ小さかったときに思ったのです。
言葉を獲得する以前の記憶って、恐ろしいなぁと。

私たちは、言葉を使って、記憶を整理しています。そして意識することができます。
でも、言葉を獲得する以前の記憶は、きっと脳の中に「そのまま」蓄えられているのではないか? と思うのです。

言葉とは繋がらずに蓄えられているから、それを、その他の記憶と同じようには意識することが難しいのではないか?

その記憶は、きっと気分や感覚や雰囲気という形で私たちの心の中に現れてきて、私たちをそっと動かしている…。

それが、「恐ろしいなぁ」というのは、私の子どものそういう大切な記憶に私はすごく大きく深く影響しているのだなぁと思ったからです。

きっと、言葉を獲得してからの記憶というのは、言葉を使って影響を与えることができるのですよ。「その時はこうだったんだよ」って。でも、言葉を獲得する以前の記憶は、言葉を使って説明してもたぶんほとんどなんにも影響を与えられないでしょう。
何か、もっと原始的な体験や神秘体験と呼ばれるような体験が、言葉を獲得する以前の記憶に影響を与え、その人の人となりをかえていくのかもしれません。

そんなふうに思ったことを思い出しました。

2005年12月18日 (日)

「蟲師」

最近知りましたが面白いです。知っている人はとっくにご存じだったと思いますが。



「蟲」というのはすごく単純にいうと妖怪のような存在です。
まあ、物語の中では、きちんと定義・説明されていますが…。おおざっぱに言って妖怪でしょう。
でも妖怪だと思ってしまうと、この物語のおもしろさが半減してしまいます。
この物語のすごいところは、「蟲」という概念を作ったところでしょうね。

あとタイトルも良いですね。
「蟲師」というのは、なんだかパッとは意味が分かりません。画数も多くて漢字に雰囲気があります。
また、「むしし」という音は、全くそこから意味を想像させません。
「蟲士」だとバランスが悪いし、「虫士」だと軽いですね。

また、「師」だと先生という意味で、私の勝手な連想では、「できる人」ではなく「知っている人」です。
「蟲」の存在に比べて、「むしし」にできることの小ささを比べると「士」ではなく、「師」がピッタリのように感じます。

ところで、このお話には、悪人が出てこないような気がします。まだ3巻までしか読んでいませんが。

2巻の「筆の海」というお話と、「雨がくる虹がたつ」というお話が好きですね。

2005年12月14日 (水)

ゲド戦記

ゲド戦記がジブリで映画化されるとのこと、
激しく期待し、不安も募る。

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