内なる自然
カオナシさんが「優越感と自信が消える」という記事を書かれていました。
そこには、
「何か一つ自信のあるものを」というのは、そこで得られる安心感が、そのことだけにとどまらず、その人の感じる世界全体に広がっていく、だから、一つだけでもいいから自信の持てるものを持ちなさい、という話なのかな?と思ったわけです。さて、実は、ここからが本題なんですが(長い前振り(^^;)、人間誰しも、高齢になっていくと、体力その他いろいろな能力が低下していきますね。
そうなると・・・例えば、寿司を握らせたら誰にも負けない!という親方も(って、その手のマンガ・・・『将太の寿司』を読んでるからなんですが(^^;)、いつかは、思うような寿司が握れなくなるときがやってきます・・・。
そうなったとき・・・自分の自信の土台をつくっていた「寿司」が握れなくなったとき(この部分は、人それぞれだと思いますが)、人は、いったい、何を支えにして、そこから先の人生を生きていけばいいんだろう?どうやって人生を送っていくことになるんだろう?
・・・ということを、ふと思いました。
といったことが書かれていました。最近考えていたことが刺激されて書くべきことが出てきたような気がするので、文章にしてみました。
私達人間は生き物なので、その根っこの所には「内なる自然」と呼んでもかまわないわないような何かが生きているのではないかと、私は思っています。人間として生まれてきたごく初期には、本当にその「内なる自然」そのままに生きていくことしかできないわけです。でも、私達は、少しずつ色々なものを学び、獲得していくのです。「何か一つ自信のあるものを」ということも、そのプロセスの一つについて言っているのだと思います。ある時期までは、成長するということは、獲得することであり、価値あることが出来るようになることです。
脱線しますが、この獲得したものは、学習や技術と呼んでもかまわないと思うのですが、そう考えると、以前の議論につながるようにも思います。カウンセラーの技術と人格(人柄)ということが、一時期議論になったのですが、技術と対置されるべきは、人格や人柄ではなく、(内なる)自然だったのではないかと、今になって思います。
しかし、ある程度以上の年齢を過ぎると、獲得したり、出来るようになったことを手放すことが多くなってきます。これは、つまり、自分の持つ内なる自然がむき出しになってくることではないかと私は思っています。私は、まだ手放すだけではなく、色々と獲得していく(獲得していかなければならない)年代です。でも、獲得したものを手放すということを意識していかなくてはならないと、感じることが多くなりました。
付け焼き刃で、私の持つ内なる自然に何にも影響がないようなことを今更身につけても仕方がありません。いずれ失ってしまうわけですから。また、私の持つ内なる自然が歪められたり、傷つけられたり、消耗させられたり、するような何かを身につけてしまうことだけは避けたいと願っています。その悪影響から抜け出すほどの時間は、持ち合わせていないでしょうから。
今の私は、私の持つ内なる自然が少しでも豊かになり、生命力を増すような何かを選んで、身につけていかなければならないと、そしてそうありたい、と願っています。
なんだか、しっかり書けていないような気がしますが、とりあえずアップしてみます。
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