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2005年8月

2005年8月31日 (水)

内なる自然

カオナシさんが「優越感と自信が消える」という記事を書かれていました。
そこには、

「何か一つ自信のあるものを」というのは、そこで得られる安心感が、そのことだけにとどまらず、その人の感じる世界全体に広がっていく、だから、一つだけでもいいから自信の持てるものを持ちなさい、という話なのかな?と思ったわけです。

さて、実は、ここからが本題なんですが(長い前振り(^^;)、人間誰しも、高齢になっていくと、体力その他いろいろな能力が低下していきますね。

そうなると・・・例えば、寿司を握らせたら誰にも負けない!という親方も(って、その手のマンガ・・・『将太の寿司』を読んでるからなんですが(^^;)、いつかは、思うような寿司が握れなくなるときがやってきます・・・。

そうなったとき・・・自分の自信の土台をつくっていた「寿司」が握れなくなったとき(この部分は、人それぞれだと思いますが)、人は、いったい、何を支えにして、そこから先の人生を生きていけばいいんだろう?どうやって人生を送っていくことになるんだろう?

・・・ということを、ふと思いました。

といったことが書かれていました。最近考えていたことが刺激されて書くべきことが出てきたような気がするので、文章にしてみました。

 私達人間は生き物なので、その根っこの所には「内なる自然」と呼んでもかまわないわないような何かが生きているのではないかと、私は思っています。人間として生まれてきたごく初期には、本当にその「内なる自然」そのままに生きていくことしかできないわけです。でも、私達は、少しずつ色々なものを学び、獲得していくのです。「何か一つ自信のあるものを」ということも、そのプロセスの一つについて言っているのだと思います。ある時期までは、成長するということは、獲得することであり、価値あることが出来るようになることです。

 脱線しますが、この獲得したものは、学習や技術と呼んでもかまわないと思うのですが、そう考えると、以前の議論につながるようにも思います。カウンセラーの技術と人格(人柄)ということが、一時期議論になったのですが、技術と対置されるべきは、人格や人柄ではなく、(内なる)自然だったのではないかと、今になって思います。

 しかし、ある程度以上の年齢を過ぎると、獲得したり、出来るようになったことを手放すことが多くなってきます。これは、つまり、自分の持つ内なる自然がむき出しになってくることではないかと私は思っています。私は、まだ手放すだけではなく、色々と獲得していく(獲得していかなければならない)年代です。でも、獲得したものを手放すということを意識していかなくてはならないと、感じることが多くなりました。

 付け焼き刃で、私の持つ内なる自然に何にも影響がないようなことを今更身につけても仕方がありません。いずれ失ってしまうわけですから。また、私の持つ内なる自然が歪められたり、傷つけられたり、消耗させられたり、するような何かを身につけてしまうことだけは避けたいと願っています。その悪影響から抜け出すほどの時間は、持ち合わせていないでしょうから。

 今の私は、私の持つ内なる自然が少しでも豊かになり、生命力を増すような何かを選んで、身につけていかなければならないと、そしてそうありたい、と願っています。

なんだか、しっかり書けていないような気がしますが、とりあえずアップしてみます。

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2005年8月29日 (月)

気が付いてみると、どうも私はここ1ヶ月ほど、自分自身の闇の世界に足を踏み込んでいたようです。といっても、多分誰にも分からないと思うのですが…。
ここ数日で闇の世界から、少し、元の世界へ戻ってきたようです。まだ、片足はつっこんでいる感じがします。

ゲドは、自分の闇を自分のものとして統合して大賢人になったのですが、私は、まだまだそこからはほど遠いようです(当たり前でした)。
私の内なる闇は私よりも遙かに大きく,、私を飲み込んでいます。

でも、私の闇もまた、私にとっては、愛おしい大切な存在です。

また、書くことが出てきたら記事を書きたいと思います。

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2005年8月12日 (金)

こんなスクールカウンセラーは××だ!

ある研修会の講師の依頼をいただきました。ここのところ、そのための資料づくりをしています。最近では、パワーポイントを使ってプレゼンテーションすることがごく当たり前になってきているようで、私が研修会の主催者側だとしても、パワーポイントぐらい使ってほしいというのが本音のように思います。やっぱり見栄えも良いし…。

しかし、パワーポイントを使ってプレゼンテーションをすることがどうもしっくり来ない気がして、今ひとつやる気が起きないでいます。パワーポイントを使うと、すっきり・はっきり・美しくプレゼンテーションすることができます。でも、私は、どうやらそこに、抵抗があるのです。

私がその研修会で話すことは、研究の成果などではなく、実践上の試行錯誤、工夫などです。従って、私の話す内容や言葉は、はっきりした概念や理論ではありません。知識や情報をお伝えするような研修ではないのです。たとえ話を沢山使ったりして、もっと曖昧で多義的な内容を話せたらいいなぁと思っています。

だから、パワーポイントですっきり美しく見せるということは、ピッタリ来ないのだと思いました。

ここまで考えていくと、すごく楽しいアイディアが浮かんできました。

鉄拳みたいに、スケッチブックに絵を描いて、「こんなスクールカウンセラーは××だ!」とやったらどんなにか楽しいだろう…。やっぱり、顔は白塗りにして、額に「SC」と書いたらいいかもしれません。でも、参加者はビックリするだろうかとか、お金を払って参加しているわけだから、怒り出す人はいないだろうかとか、いろいろと空想は広がりました。

でも、すごく大きな問題がたくさん…。私は絵がほとんど描けません。そして、実際にそんなことをやってみる勇気もないし…。

ちなみに、鉄拳の公式ホームページはここです。なお、私は鉄拳がすごく好きです。

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2005年8月11日 (木)

王様!!! 火がついています!!!

「正しいことは人を揺さぶる」という記事を書きましたが、何人もの人がいろんな反応を寄せてくださいました。
本当にそういう反応はありがたいものです。色々と刺激を受けて、色々と考えが浮かんできます。
灰色のたぬきさんのところでこんな記事がありました。

「裸の王様」という話があります。
王様に裸だと教えてやることにどのような意味があるのかは別として、
どうしても、王様に「あんたは裸だ!」って言わないといけない状況にいるとしましょう。
あなたは言えますか?
「あんたは裸だ!」って・・・。

その事を考えて、灰色のたぬきさんのところのコメントにも書いたのですが…。王様が私にとって、どんな人なのかによって、私の行動は違うだろうと思いました。すごく大切な人だったら、言葉を使って関わる前に、とにかく何とかして、布をかぶせるとか、車へ載せるとか、人の目を遮るような実力行使に出ます。どうでもいい人だったら、ほうっておきます。嫌いな人だったら、誰か裸だといわないかなぁと楽しみにして待つかもしれません。でも嫌いな人の裸なんか見たくないですが…。

ところで、私は、言葉ですませてしまうことによってこちらの意図が充分に伝わらず、逆効果になってしまうことを避けたいと思い、できるだけそこに気を配るようにしています。例えば、私の妻が毎日がんばって家事をこなしていてくれたとします。私が、妻への感謝を込めて「毎日ありがとう」と言ったとします。でも、私はこれは、言葉で済ましてしまっていると考えています。本当にありがとうという感謝の気持ちを持っているとしたら、(言葉ではなく)行動で示すべきだと思っています。つまり、妻の負担が少しでも減るように家事を少しでも行う(手伝う)べきだと、私は思うのです。言葉で、「ありがとう」というよりも、行動として家事を手伝うことの方が遙かにコストがかかります。私は、こういったこと場合に、ついつい、言葉で済ましがちなのです。自戒を込めて、言葉で済ましてはならないことがある、と考えています。
だから、王様が大切な人なら、うだうだ言っていないで、実効ある何らかの方法を直ちにとるべきだと思ったりします。

もう少し話を進めると、言葉(の内容)で全ての物事へ影響が与えられるわけではなく、言葉ではできないこともあるわけです。ロテ職人さんが、灰色のたぬきさんの別記事へのコメント

「2ちゃんねる」という場所に生息していた時代がありました。なんだかんだ言われる場所ではありますが、個人的にかなり有意義な議論もできましたし、色々と勉強になったことも多かったです。ただ、どうしても「話の通じない人」というのはいるんですよね。そういう場合、情緒面に訴えかけるのが一番有効だったりしたんですが…やっぱ間違ってるのかなぁ?

と書かれているのですが、言葉の内容そのものではなく、言葉のもつ非言語的(あるいはプレヴァーバル)な要素を最大限に活用して、情緒面に働きかけるということではないかと、理解しました(つまり、意図的に煽る?)。これれは、言葉で済ましてしまわないで行動で働きかけるということとつながっていると思いました。言葉ではなく非言語(行動)で働きかけるという方法と、言葉の持つ非言語的な要素で働きかける、ということで、近くはないけれども、つながっているのではと…。もっとも、私の書いている行動で働きかけるということは素朴な方法なのですが、ロテ職人さんのやり方を意識的に行うのほうが、言葉を使ったコミュニケーションを高度に活用していて、非常に洗練されていると思うのですが、いかがでしょうか? 

でも、別に王様は大切な人でもなく、立場上、王様の裸を何とかしなくてはいけない場合にはどうしたらよいでしょうか。私の尊敬する神田橋條治は、対話ということを生業にしているのだから、骨格の筋肉の働きを使って相手に影響を与えるのはシャクに障る、何とかして、舌先三寸(言葉を使って)でできないかと考える、というようなことを確か言っていました。それの猿まねをして、骨格の筋肉の力ではなく、言葉の力を使って何かできないかと考えていました。

私が思いついたのは、

パニックになりながら、大声で、できるだけ、大げさに
「火が!!、王様!!! お洋服に火がついております!!! 速く!!、速く、お脱ぎになって下さい!!!」
と叫ぶのです。
(これも骨格の筋肉の働きをすごく使っているのですが…。)

王様は、見えない(着ていない)服を脱いで、別の服に着替えるかもしれません。そして、その後で、場面を変えて、ゆっくりと時間をかけて、王様が裸ではなかったかということについて、王様と一緒に検討していけば良いと思います。

物語では、たしか、王様は自分が裸ではないかとうすうす疑っていたと思います。だから、それをあからさまに指摘すると、かえって受け入れられない可能性があると思います。王様が傷つかないようにきちんと逃げ場を確保しながら、事態を打開する言葉が必要かもしれません。大切なことは、王様に、「王様は裸だ」と言うことではなく、とりあえずは、王様が裸であるという事態を何とかするということだと思います。

ところで、「孫子」という中国の古典兵法書があります。そこに、「囲師は周するなかれ」という言葉があります。「敵を包囲する場合には、どこかに逃げ道をあけておくべきで、完全包囲してはならない」という意味です。兵法の基礎で、小説の三国志などを読むとそういう場面が良く出てきます。余談ですが、「孫子」の考え方は非常に面白く、戦争をしてから勝とうとするから戦争に負ける、戦争を始める前に勝つと分かってから戦争を行うべきだ、もっとも良い方法は戦わずに勝つことだ、というようなことが書かれています。

議論をするときにも、相手を追いつめてしまうと、結果的に議論が行き詰まってしまう可能性があると思います。大切なことは、相手をたたきのめすことではなく、より建設的な認識に少しでも近づくことかと思います。

勝手に引用してしまいましたが、ご容赦お願い致します。

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2005年8月10日 (水)

なぜ議論をするのか

灰色のたぬきさんのところの記事にコメントしようとしたら、投稿できなかった(たぶん連続投稿ができないのでしょう)ので、自分のところで記事にしてみました。

私は何か発言するとき、どこかで自分の考えを否定して欲しかったりする面があるんですが…というか、自分の考え(ある意味で「自分は正しいと思っている」こと)を否定されないと、自分の考え・意見が磨き上げられていくことってないと思うんですよね。
と、別の記事にロテ職人さんからも、コメントいただいたように、自分にとって、議論が必要なのだと思います。私自身が自分の考えを確認したり、否定したり、盲点に気づかされたり、ということを求めているのです。それは、自分一人ではなかなか難しいことだと思います。だからこそ、私にとって、議論が必要なのだと思います。
でも、議論していると思っていたら、いつのまにか、水掛け論や言い逃れに終始してしまうことも起きがちだと思います。水掛け論や言い逃れの応酬では、私の求める議論にはならないのです。だから、私にとって議論が必要だからこそ、議論はただ議論をするのではなく、建設的な議論を維持していくということが同時に大切だと私は考えています。そのためには、議論の内容だけではなく、議論の進め方にも気を配りたいと私は思っています。建設的な議論を維持していくことは、本当に難しいと感じています。

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2005年8月 9日 (火)

恐れつつ待ちこがれている

正しいことは人を揺さぶるという記事を書きました。

そして、いくつかのコメント・トラックバックをいただきました。それで考えていて、改めて思い出したのですが…。実は、私自身が激しく恐れつつ、激しく待ちこがれているのは、私を、“ああ、本当にそうだ”と激しく納得させ激しく打ちのめしてしまう正しい指摘なのです。

そして、その事を、思い出したときに、つながって思い出されたのが、自助グループでよく唱えられているという「平安の祈り」です。

神様、わたしたちにお与えください
変えられないものを 受け入れる落ち着きを
変えられるものは 変えようとする勇気を
そして、その二つを見分ける賢さを

という内容だったと記憶しています。

私自身は特定の宗教を信じているわけではありません。
ただ、この祈りを本当に心の底から、大いなる存在に向かって、祈ることができたら、どんなにか自分自身が支えられるような気がするだろうかと、想像しています。
私は、心の底から、祈ることはできないでいるのです。どうやら、何かを恐れつつ待ちこがれているようです。

何が言いたいのか自分でも分かりませんが、とりあえず、書き記しておきます。

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あなたを傷付けたとは言われたくない

ネットではなく、実社会で、ある人とトラブルになったときに、「ichiro_hさんを傷付けてしまい、ごめんなさい。」と言われました(もちろん、相手は私のことをichiro_hではなく、本名で呼んでいます。念のため。)。私は、「別に傷ついたわけでもないし、『傷付けた』なんて言われたくない」と思って余計に不快になったりしたのだが、話がごちゃごちゃすると思ったので、その事はまったく言わずに話を終わらせた。

私が自分から「傷ついた」と、もし言ったのなら、その言葉を受け止めて、「傷付けてしまいごめんなさい」と謝ってもらいたいと思う。でも、私は、ただ腹が立ち、不快だっただけでした。その時に「傷付けてしまいごめんなさい」といわれても、「私は、あんたの言葉で傷つくほどヤワじゃない」とか、「あんたが、私を傷付けるほどの力を持っていると思うのが傲慢だ」とかいうさらなる怒りや不快感が湧いてきたように覚えています。

私が「自分は傷ついた」とは言っていないときに、「私(ichiro_h)を傷付けた」と相手が思うことは、私が自分で自分を守り・支える力を見くびっていることであり、相手が自分自身の力を過大に評価している証拠だと思う。

今から振り返ると、私の場合では、
「ichiro_hさんをはなはなだしく不快にさせたり、気持ちをかき乱したり、嫌な思いをさせてしまったと思う、本当にそれは、申し訳ないとおもいます。ごめんなさい。もしかしたら、ichiro_hさんを傷付けてしまうようなこともあったかもしれないとも思っています。ほんとうに、ごめんなさい。」
と謝ってくれれば、かなり、気持ちがおちついたんだろうなぁ、と思います。

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2005年8月 8日 (月)

「しね」という言葉

中学生と関わっていると、「しね」とか暴言を吐いている場面に出会うことがよくあります。

「しね」という言葉は、最も程度の低い攻撃の言葉だと私は考えています。相手のことをよく理解しないでも、適当に言っても、言うことのできる、攻撃の言葉です。私を狙って確実に攻撃しているのではなく、適当に、手当たり次第に攻撃しているような感じです。私を本当に攻撃するためには、私の最も攻撃されたくない○○を攻撃してこなくてはならないと思います(○○はとてもここへは書けません)。

だから、「しね」何て言う言葉に、傷ついてあげる必要は全くなく、「もっと、レベルの高い攻撃してこなくちゃね」ぐらいの感じかもしれません。

ただ、人それぞれ、歩んできた歴史の違いから、「しね」という言葉こそ、最も攻撃されたくない核心だという人もいらっしゃるはずです。

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正しいことは人を揺さぶる

正しいことほど、人を揺さぶり、傷つけることはないなぁと、思います。
的はずれの場合や核心をついていない場合には、きっと、それほど揺さぶられないのでしょう。
正しいからこそ、揺さぶられ、そして傷ついてしまうのだと思います。
だから、正しいことを正しく主張しても、議論が正しく進んでいくとは限らず、議論はむなしく漂っていってしまうのかもしれません。
正しいことを言っているときほど、気をつけなければならないなぁと思いました。これは、たとえ相手のためではない場合であっても、議論が実りあるものとなるためには、大切なことだと思いました。

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2005年8月 7日 (日)

保育の質

先日、下の子どもが保育所にウルトラマン○○の帽子をかぶっていきました。多くの子どもたちは、キャラクターものの靴をはいたり、キャラクターものの持ち物を沢山持っています。うちの子は、キャラクターものの持ち物はほとんど持っていません。値段が高いからです。でも、上の子どもつながりのお母さんから、お下がりで、ウルトラマンになれる帽子とTシャツとズボンのセットをもらったのです。キャラクターものをほとんど持って行かせていなかったので、ちょっとかわいそうにも思っていたので、帽子をかぶらせて保育所に行きました。

そしたら、同じクラスの子どもたちはかなりうらやましかったようで、帽子の取り合いのようなことがちょっと生じてしまったようでした。「貸して」とか「貸さない」とかで、ちょっとしたけんかが何回も生じたようです。

親としては、保育士さんに少し申し訳ないような気がして、それ以来帽子をかぶらせて行かなかったのです。そのことをちょっと保育士さんに言ってみたら、「全然大丈夫ですよ、そうやって育っていきますから」というふうに言われました。ちょっとホッとしたというか、安心したというか、感激したのです。

保育をする上では、ある子どもの持ち物を巡って取り合いになったりするのは面倒なことだと思います。だから、「持ってこないでください」といえば、簡単なことだと思います。でも、そうしないで、色々ごちゃごちゃありながら、でもそこできちんと関わって子どもが育つことを支えていくというのが、やはり保育の質かなあと思いました。

上の子も下の子も、同じ公立保育所に通ったのですが、なんとその保育所は民営化されてしまうようです。時代の流れとして仕方がないような気がしますが、親としては、納得いかない面も多いのです。

ウルトラマンの帽子を許容せず保育するのと、それを許容して保育するのでは、表面的にはほとんど違いがないかもしれません。問題に目を向けそれが起きないようにする保育と、子どもの成長に目を向けそれをサポートする保育では、そこに子どもにとっての保育の質の違いが生じるように思いました。保育所が民営化になってもそういう保育の質が保たれることを願ってやみません。

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暑い

あまりに暑いです。やはり、地球は温暖化しているのでしょう。Co2の増加が地球温暖化を促進しているというのは、おそらく共通の認識のはずです。でも、どこかの大国は、経済発展を妨げるという理由で、Co2の削減には賛成していないようです。私には、その考えがまったく理解できません。

というわけで、私はチーム・マイナス6%です。ブログのデザインもチーム・マイナス6%に変えてみました。お上の音頭取りには、いろいろな考えもあると思いますが、とりあえず少しでもできることから。

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戦争と自分

高校生の頃、疑問に思っていたのですが…。「平和の大切さを伝えるために、戦争の体験を風化させてはいけない」ということに少し違和感がありました。平和を大切であることも、戦争の体験を風化させてはいけないということも、私は全面的に賛成です。でも、この2つが単純に結びつけられることには違和感があります。平和が大切だと分かるためには、戦争が必要になってしまうのです。
しかも、必ず戦争の体験は、風化していってしまうでしょう。歴史の教科書に記されるような、事実としての戦争は記録として残っていくはずです。でも、体験としての、生々しい記憶は、時間が経つに連れて必ず失われていくはずです。これは、悲しいことでもあり、でも、幸せなことでもあるはずです。

私は、戦争は絶対にイヤだし、あってはならないことだと思います。だからこそ、戦争の体験を語り継いでいくこと(はもちろん大切だと思うのですが)だけでは、平和の大切さを感じ、戦争を起こさないようにしようと思う気持ちを育てていくには、足りないように思うのです。

私は思うのですが、戦争は私の外側にあるのではなく、私の内側にあるのです。私の中には、怒り・憎しみ・敵意が確かに存在します。そして、事なかれ主義・現状への追随・大きなものへの迎合もやはり、私の中に確かに存在します。これらときちんと向き合っていくことこそ、私にとっては戦争への反対運動であり、平和活動ではないかと感じています。

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2005年8月 2日 (火)

邪魔をしないこと

スクールカウンセリングにおいて基本として最も大切なことは、「邪魔をしないこと」だと私は考えています。

学校は、スクールカウンセラーが配置されるようになる遙かに以前から、子どもたちと先生方が、共に生活し共に学んできた場です。だから、スクールカウンセラーなんかいなくても、それがごくごく当たり前のことだと私は思います。また、スクールカウンセラーが学校で活動しているのは、(ほとんどの場合)週に8時間です。だから、学校が活動している時間の大部分はスクールカウンセラーのいない時間なのです。やっぱり、スクールカウンセラーなんかいなくても、それがごくごく当たり前のことだと、私は思うのです。

子どもにとっても、やっぱりそうだと思います。スクールカウンセラーは、子どもの人生の中で見ると、本当に最も最近になって、登場してきた人でしょう。スクールカウンセラーなんかいなくても、(少なくとも)どうにかこうにか、(もしかしたら)ものすごくうまい具合に生きてきたのです。また、子どもが今生きている時間の中でも、スクールカウンセラーが関わっている時間は、ごくごく限られた時間でしょう。子どものそばに、スクールカウンセラーがいることは、ごく限られた瞬間でしかありません。子どもにとっても、スクールカウンセラーなんかいなくても、それがごくごく当たり前のことだと、私は思うのです。

スクールカウンセラーがいなくても、それなりに、どうにかこうにか、やっとのことで、うまく生きていっているのに、スクールカウンセラーがやってきて、その邪魔をしたり、引っかき回したり、してしまってはまったく最悪でしょう。

もし、専門機関のカウンセリングであれば、子どもの生活や人生の邪魔をしたり、引っかき回したりしてしまっても、最悪でも、その専門機関でのカウンセリングを子ども自身の生活や人生から切り離して捨ててしまうことができます。しかし、スクールカウンセラーは学校で活動しているのです。スクールカウンセラーのいる学校を子どもの人生や生活から切り離してしまうことは、専門機関をそうするよりも遙かに面倒で大変なことです。そして、遙かに子ども自身に負担を強いる結果になります。

だから、スクールカウンセラーは「邪魔をしない」ということが非常に大切だと私は思うのです。そして、その上で、少しでも子どもの役に立つことを目指していかなくてはならないでしょう。

私自身は、駆け出しの頃よりも、「ケガの功名」のようなことが少なくなってきたなぁと感じています。つまり、失敗しそうになったり、失敗してしまったり、でも、結果的にうまくいった、ということが少なくなってきた感じです。まあ、ある程度は、キャリアを積んできたのですから、「ケガの功名」なんてことを期待したり、それでOKだと思っていたりしては、まったくダメなんだと思いますが…。

でも、逆に言うと、難しいことに挑戦しなくなってしまったのかもしれません。子どもの利益を考えるなら、以前よりもっと、難しいことに挑戦しなくてはならない面もたくさんあるはずです。邪魔をしないことと、新しいことに挑戦していくことを両立させていくことが私の課題です。

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