クライエントの立場として考えるとカウンセリングは恐ろしいものかもしれない
最近特に思うようになってきたことですが、クライエントとしてカウンセリングを受けて、自分のことを語るっていうことは、すごく苦しいことだなぁと思うんです。
自分でも、うすうす気づいていて、それでも気づきたくない自分について、自分で言葉として表現していく…。もちろん、自分自身が、表現したい気持ちを持っているし、でも気づかない(フリをした)ままでいたい…。
本当に、自分に向き合う作業というのは、苦しいものだなぁと思います。
もっとも、私は、カウンセリングを受けてそう言っているのではなくて、仕事とか生活とかで、色々あったときに、自分自身を振り返ってみて、自分で自分を振り返ることは苦しいことだなぁと思っているわけです。
それでさえ苦しいのに、カウンセリングを受けてカウンセラーという他者と一緒に、自分自身を振り返っていくという作業を考えると、空恐ろしいような、気持ちになります。
自分で自分を振り返るときは、自分でそのペースや進み方をある程度コントロールしていくことができるわけです。むしろ、なかなか進んでいかないと考えた方がよいかもしれません。苦しいからサボってしまい、停滞するわけです。
でも、カウンセラーがいるときには、そのペースや進み方にはカウンセラーがかなりの影響力を与えるはずです。クライエント(私)がもうちょっとやめておきたいとか、いっぱいいっぱいだと思っても、カウンセラーが、核心に近づくように焦点をあててくる可能性があります。そうすると、私(クライエント)は自分の準備を越えて自分自身に直面させられて、かなり心を揺さぶられ、苦しい思いをさせられるような気がします。もし、自分がクライエントならと考えてみると、カウンセリングを受けることは本当に恐ろしい気がします。
ネットを見ると、鈍いカウンセラー(自分の世界からだけ見ていて、関係ないことを押しつけてくる)に対する非難・不満をよく見かけるような気がします。でも、私が本当に恐ろしいと思うのは、正しく的確にクライエントの抱えるテーマの核心のほうへ進んでいくカウンセラーです。カウンセラーの言葉が不正確で、ずれている場合には、クライエントとしては、イライラしたり腹が立ったりするかもしれません。不正確ででたらめな言葉ですから、それは流れ弾に当たったようなものかもしれません。そして、確率の問題ですが致命傷にはならない可能性のほうが高いでしょう。しかし、正しく的確にクライエント(私)のテーマの核心に焦点をあててくるカウンセラーの言葉は、おそらく避けることができません。そして、ほぼ確実に深い傷を負います。本当に恐ろしいのはこちらのほうかもしれません。
しかし、私がクライエントとして求めるカウンセラーは、不正確ででたらめな言葉が返ってくるカウンセラーではありません。
私がクライエントなら、求めるカウンセラーは、正しく的確に私(クライエント)のテーマを感じ・理解し、そして、進みすぎず、きちんと私(クライエント)の準備ができるまでじっくりと待ってくれるカウンセラーです。