「AERA(6月6日号)」に「学校カウンセラー 孤立と失望の理由」という記事が載っていました。スクールカウンセラーが学校の教職員や組織にうまく受け入れられずに、孤立している現状が紹介されていました。例えば、生徒の交換日記について職員会議で否定され、“糾弾”されたというSCの事例が紹介されていました。その理由は、“文書で決裁をあげていないということ”、“勉強の妨げになる”ということだったそうです。あげられた理由は、表面的にはっきり分かったことだけで、背景には色々と想像できます。表面的に現れたことよりも、そこへ至る経過の中にこそ重要なことがあると思います。でも、憶測では色々書くことはできません。はっきり分かることから考えていきたいと思います。
文書で決裁をあげていないことが、一つの理由で、これは、明らかにSCの失敗です。しかし、実際はどの程度の活動を、どのように職員間で了解してもらうのかは、学校によってかなり異なっています。SCの配置のごく初期には、SCはお客さん扱いされて、職員として当然のことを職場でこなして来ていなかったということが良くありました。当然、文書で決裁をあげるべきことであっても、管理職が配慮してうまくいくように根回しをしてくれたり、きちんとやっていなくても大目に見てくれたりということがありました。これは、その学校で勤務している間は非常にありがたい(?)のですが、これが普通だと思って次の勤務校に行ってしまうと、そこで自分がどのように職員の一人として動いていくかがまったく分からず、色々と、他の職員に迷惑をかけたり、SC自身では気がつかないうちに他の職員から嫌がられたり、ということに陥りがちです。
そのこと以上に、私は職員会議でのエピソードが非常にもったいないと思うのです。職員会議で何らかの不備を指摘されたりすることは、(おおげさですが)SCの晴れ舞台(!)だと思うのです。他の職員との意見の相違や葛藤は、SCという立場の性質上、ごく当たり前・普通のことです。そのなかをどうやって生き延びていくかがSCの腕の見せ所でしょう。葛藤・食い違いがあっても、潜在化している場合には、なかなかその葛藤や食い違いには関わっていくことが難しいものです。現状の課題を会議で指摘したり、SC担当の先生に相談したりしてみても、それが潜在化している場合には、「そんなことないですよ」と言われたり、個人的に同情されたりするだけで、なかなか葛藤や食い違いを埋めていくことにはつながりにくいものです。だから、職員会議で指摘されるなんて、めったにない良いチャンスです。
アエラの記事では、SCは「食い下がった」とありますが、決して食い下がってはいけないと私は思います。その場にいなかったものが、後からこうすれば良かったのになどと言うのは、いくらでも言えることで、普通は奨励されません。でも、その記事のSCを否定するわけではなくて、SCの仕事をどうこなしていくかを考えてみるために、私の考えを書いてみたいと思います。
この場合、相手の先生を論破したり、相手の先生にこちらの考えをわかってもらったりすることが重要なことではないと思います。なぜなら、議論になって、自分の意見が通らなかったときに、新たに発見できたとか、盲点に気づけたとか思う人はほとんどいなくて、気持ちにしこりが残ることがほとんどだからです。また、職員会議という場で起きているわけですので、その議論には参加していなくても、議論を聞いている先生が何人もいるわけです。そういう人をどのようにこちらの側に近寄らせるかが大切でしょう。
また、私は、議論をするときには、その場で相手が言ったことを使って私の考え・結論を証明しようすることが大切だと思います。こちらが相手側の事柄に言及すると、相手はいくらでも言い逃れができるからです(「それは本当はこうなっている」とか言われるわけです)。その場で言ったことであれば、言い逃れが難しくなります。(それでも無理矢理言い逃れをする人もいますが、説得力がなくなります。)さらに言えば、この場合は、私は自分自身の考えを証明したり、分からせたりする必要はないと思います。結論は相手の結論を意見を呑んでおいて、論点だけを示すだけで充分だと思います。聞いている他の先生方は、論点さえ明確にすれば、もし私の考えが少しでも価値のあるものならば、私の考えと近いところまで来てくれる可能性が高いと思います。
この例で行くと、“勉強の妨げになる”ということについて、SCは違う事実から違う意見を持っていたとします。例えば、生徒が「交換日記は勉強の励みになる」と言っていたとします。しかし、それを会議に持ち出すと、相手の先生は、「生徒はそう言っているかもしれないが、実際は成績が下がっている」とか、「実際は、授業中の態度が悪くなっている」などということを言ってくるかもしれません。そうすると、SCが「そんなことないでしょう」と言っても、これは水掛け論にしかなりません。私がどう思っているかよりも、相手がどう思っているかのほうが役に立つはずです。
実際にどうするかというと、「大変申し訳ないですが、先生が勉強の妨げになるとおっしゃっているのは、例えば、どんなことからそのように判断されたのか教えていただけませんか?」と聞くわけです。もしかしたら、明確な理由は語られないかもしれません。「勉強の邪魔になるに決まっているじゃないですか」などという答えが返ってくる場合がそうです。そうしたら、「いまのところ、勉強の邪魔になっているということが具体的に起きてしまっているわけではなくて、先生はそういう可能性を心配して教えていただいているわけですね。」と返します。また、「授業中の態度が悪くなっている」と答えてくれたら、その事を繰り返してから、他にありますかと聞きます(情報を多くつかむ方が議論をしやすくなるからです)。出ない場合は、「理由としては○○ということが1つあるわけですね」と「1つ」とわざわざ言って、確認しておきます。その上で、「○○ということは、私自身は教室へ行ったりしないので、気がつかないでいて、大変申し訳ありませんでした。お願いばかりですみませんが、気になることとか、気がついたこととかがあったら、これからも、ぜひまた、教えてください。」と言います。“教室のことは、こっちまで言ってくれなければ分からないだろう”などと思うわけですが、そうは言いません。「私は週に8時間しか勤務していないので、生徒の様子は先生方のほうがよくご存じだとおもいます。私が気づかないことがたくさんあると思いますので、お手数を取らせて申し訳ありませんが、今度からもこんなふうに教えてください。」と言います。論点は示しておきたいのですが、相手の意見は呑んでおきます。
こんなふうに相手の意見を受け入れるようにやっても、「週に8時間しかいないなんて、こっちの手間ばかりかかって、本当に役に立たないねぇ」などという攻撃的な発言が出てくるようであれば、それは、かえってこちら側の利益になるでしょう。聞いている先生の中に“そこまで言わなくても”と思う人が出てくるはずです。「制度上そうなっているので、お邪魔かもしれませんが、よろしくお願いします。」などと答えたいと思います。
また、“いつぐらいから勉強の妨げになると考えていたか”を聞いてみたい気もします。「今日教えていただいてやっと気づいたのですが、先生は、私よりももっと早くから…ですか。すみませんが、いつぐらいからかとか、どんなところからとか、よかったら教えていただけませんか?」と聞くわけです。教えてくれたら、今までと同様に、繰り返して確認しておきます。「△月ぐらいに、××というところで気づかれたわけですね。ありがとうございます。」等と言うわけです。「そんなに早く気づいているんだったら、速く言えよ!」などと思っても良いのですが、決して言いません。言わないことで、その場にいた何人かの人はその事を自分で思いつくはずです。
“学校はカウンセリングへの理解がない”とか、“教師はカウンセリングを分かってない”とかよく言いますが、そんなことは当たり前です。“アメリカ人は日本文化が分かってない”ということとまったく同じことです(どちらも例外はありますが…)。教師とカウンセラーは異なる歴史・文化を背景にしています。何もしないで自動的に分かり合えるなんていうことはありえません。職員会議での糾弾は少しでも分かり合える絶好のチャンスなのです。
また、言い負かしたりすることが重要なのではなく、相手に新しい認識の芽が生まれることの方が現実的だと私は思います(特に、相手と協力して活動しなくてならない場合には)。