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2005年5月

2005年5月19日 (木)

学校での生徒へのカウンセリング(?)

カオナシさんのブログやそれへのコメント.を読んでいてい色々考えました。そこで「生徒が自分自身の欲求ために、スクールカウンセラーを利用する」ことが非常に大切なのだろうと思いました。それに関連していくつか思い出すことがありました。

学校で生徒へのカウンセリングを行うと、スクールカウンセラーも学校生活の文脈や対人関係の渦に巻き込まれていきます。非日常的な専門機関のカウンセリングとはかなり違ったものになってきます。例えば、、生徒から日常的に様々なことを頼まれます。ペンをちょっとだけ貸してほしいとか、ごく単純なことから、○○先生に部活を休みますと言ってほしい、などと言うこともあります。

そういう場合には、私は基本的に、生徒に私を説得してくれるように頼みます。『「ああ、それだったら、○○をやってあげなくっちゃねぇ」と私が思えるように説得してね』などと生徒に頼みます。ほとんどの場合、なかなか上手く説得してくれません。よくあるのは、ただ単にしつこく「○○して」と繰り返す生徒です。そういう生徒には、どんなふうに説得するのかを教えてあげます。『「~ということがあって、○○だから、先生が××とやってくれると、△△というふうに良いことが起きる」というように説得するんだよ』と教えてあげます。

もちろん、本当に説得されてしまったら、生徒の頼みに応えるわけです。でも本当に説得されてしまうことはめったにありません。説得が充分でなくても、この生徒がよくここまで説得してくれるようになったなぁと、成長を感じる場合には、大サービスで頼みに応えてあげることもあります。その場合には、大サービスだよなどと言います。基本的に本当に説得されない場合は頼みには応じてあげません。結局生徒からムカつかれたりして、『今だいぶムカついてきたかな? ムカついても説得はできないよね』などと言ってさらにムカつかせたりすることもあります。なぜか、『悪いけど、それじゃあ説得はされないねぇ。ゴメンね』などと、謝ることもあります。基本的にこういうやり取りは、丁寧にきちんと、そして暖かい態度で(そのつもりですが…)やっています。

はっきり言って頼まれたことをやってあげるよりも、こういうやり取りをする方が手間がかかる場合もよくあります。でも、ただ単に頼まれたことをやってあげるようなことは、スクールカウンセラーの仕事ではないと思うのです。説得されること、説得されずに断ることはスクールカウンセラーの仕事ではないかと思っています。

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2005年5月18日 (水)

描画テスト・描画療法入門

藤掛明著「描画テスト・描画療法入門」金剛出版
という本を読みました。
具体的にわかりやすく書かれています。

テストとしての描画は、テスターと相手の相互作用の中で生まれてくるものであるということが、ただのそういう説明ではなく、実感として伝わってくるように思います。
また、描画療法も、ただ単に描かせるのではなく、そこに、援助者と被援助者の相互作用がダイナミックに働いていることがわかります。「描画療法の感動」という章で紹介されている青年の事例は、描画という場で生じる相互作用が劇的に働いています。こんなふうに関われるようになりたいものです。

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2005年5月16日 (月)

言葉は、鳴き声であり音楽であった

~ 永遠の少年 ~: 田口ランディのブログを読みました
を読んで思い出したことなのですが…。

相手を理解するということは、一体どういうことなのだろうと、最近思うのです。自分を振り返ってみると、相手を理解できたと思うことは、ほとんどあり得ないと思います。もちろん相手の話の内容を理解することは(ある程度)できます。でも、相手を理解するっていうことは、相手の言っている話の内容を理解することでは決してないように思います。

自分を振り返ってみると、人と関わってみて、対話を重ねてみて、その時生じるのは、相手の言葉を受けて、自分の心の中が何かが動き出すということです。それは、自分の心の動きでしかありません。相手の言葉をうけて、私の心の中に動きが生じてくるのです。これは相手の心の動きとはきっと違うはずのものです。これを理解という言葉で呼ぶのは、私にはしっくりきません。

言葉によるコミュニケーションは、verbal communicationである以上に、vocal communicationであるというようなことが、神田橋條治の本に書いてありました。言葉はきっと伝わるのではなく、響きあうものかもしれません。

でも私はまだ自分が響きあえるような言葉を使っているとは決して思えません。私の対話はまだ、すれ違いの段階にいます。しかし、すれ違いであってもなお、言葉のやり取りは、お互いの心の中に価値ある何かを生じさせていくのではないかと、想像し、期待しているのです。(甘いか?)

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2005年5月14日 (土)

スクールカウンセラーの出る幕はあるのか?

リンク: ~ 永遠の少年 ~でカオナシさんが「教員から見たスクールカウンセラー」という記事を書かれていました。

私が思うことは、子どもはいろんな関係の中で育っているということです。そして、子どものもつ色々な関係は、子どもの財産だということです。
そして、子どもに関わる人が常に考えていなければならないことは、「子どもが今直面している課題はどの人との関係の中で取り扱われるべきか?」ということだとおもいます。また、視点を変えると、「子ども自身は自分の直面している課題を誰との関係の中で取り扱っていきたいと感じているか?」ということも考えていかなければならないと思います。
これらをきちんと考えていくことによって、他人がやるべきことを横取りして、自分の手柄のように感じたり、反対に、自分がやるべきことをやらずにすませてしまったり、また、全てが自分の関わる問題だと抱え込みすぎたり、ということが少なくなるはずです。

誰との関係の中で取り扱うべきかについて、子どもの自立・自律という視点と、アクティングアウトという視点から考えます。

まず、子どもの自立・自律ということを考えると、保護者だから関わらなければならない部分、保護者だからこそ関わらずに他人に任せる部分、があるはずです。子どもの年齢と共に、後者が少しずつ増えてくると思います。また、担任の先生というのは、学校の中ではある意味父親的・母親的立場にありますので、同様のことがある程度当てはまるはずです。

カウンセリングについてほとんどの方が誤解されているのですが、カウンセリングは、カウンセリング関係の中で生じたこと(今ここで生じていること)を取り扱うことこそが重要なのです。そして、カウンセリング関係の中で言語化され取り扱われるべきテーマが、カウンセリング関係の外へあふれてしまった場合、それがアクティングアウトと呼ばれるわけです。
スクールカウンセリングの場合、教師生徒関係や親子関係の中で取り扱われるべき問題がその関係の外側へアクティングアウトしてきて、スクールカウンセラーの前に現れることが非常に多いわけです。それをきちんと、もとの関係の中へ返していくのがスクールカウンセラーの非常に重要な仕事の一つだと思います。
ここに、スクールカウンセラーの出る幕は少しあるように思います。これが、スクールカウンセラーが行う子どもへの援助の最も大切な部分かもしれません。

それから、精神科へリファーすることについてですが、これについても、私は多くの人が誤解しているのではないかと考えています。医師の専門性というのは、主として診断と治療の2つです。診断が入っていることを多くの人が、忘れているように感じています。医療面で「心配だなぁ」という人に対して、医師が診察をして、「特に異常がありません。治療の必要もありません。」という診断をするのも、医師の仕事です。なぜか、精神科領域の問題に関しては、その専門性を持っていない他職種が、医師の専門性(診断)をある程度肩代わりしようとしているのです。おそらく、この背景には、精神科へ行くように勧めるのは難しいから、できるだけ必要な人だけに勧めるようにしたい、というような気持ちが働いているのではないかと私は想像しています。私の考えでは、精神科へリファーすることに関しては、診断のまねごとをやめることが、最も重要だと考えています。そこへスクールカウンセラーが出しゃばることは、おかしなことです。つまり、まず大切なことは、治療の必要がある人をリファーしようとするのではなく、診断の必要のある人をリファーしようとすることでしょう。
その上で、確か統計学で、第一種過誤とか第二種過誤とかいう考え方があったかと思いますが、それと、同じ筋道で考えることが大切だと思います。精神科で診断を受ける必要がある人を確実にリファーするには、それを遙かに上回る人数の人を精神科にリファーする必要があるのです。リファーすべき人をリファーしなかった場合と、リファーしなくてもよい人をリファーしてしまった場合を比較すると、前者の場合の方が問題が大きいわけです。それで、できるだけたくさんの人を精神科にリファーするように考えるというのが正しい筋道だと考えられます。
つまり、精神科リファーの問題は、「どのように見極めるか」ではなく、「どのように勧めるか」なのです。

というわけで、ここにもあまり(全くではありあせん)スクールカウンセラーの出る幕はないのでした。

念のため書きますが、本格的なカウンセリングが必要な問題を抱えている子ども(例えば、虐待のトラウマ)は、スクールカウンセラーのカウンセリングの出る幕ではないと思います。生活の場から離れた専門機関でしっかりとしたカウンセリングを受けるべきです。学校生活の場で、そういう問題に関わることは、援助を受ける子どもの不利益につながることが予想されます。

上に書いたことと矛盾するようですが、保護者や教師は子どもに対してスクールカウンセラーを利用するようにどんどん奨励するべきだと思います。これは、医療でいうセカンドオピニオンとして、あるいは、相撲などでいう出稽古としての意味があります。セカンドオピニオンを活用するためには、患者自身が主体的に治療に関わっていることが必要です。逆に言えば、セカンドオピニオンを活用しようとするプロセスで、患者の側に自分が治療の主体であるという意識が育ってくる場合もあるわけです。また、出稽古は、そこの部屋へ入門するために出稽古にいくわけではありません。自分の部屋での稽古がもっと実りのあるものになるために出稽古にいくわけですね。ところで出稽古にきた力士を自分の部屋に勧誘してしまう相撲部屋は言語道断でしょう。
つまり、子どもが親や教師に勧められてスクールカウンセラーを活用することは、子ども自身が自分で自分の問題を考えるような主体がを育つ、そして、今ある関係(教師生徒関係・親子関係)を外側から眺めて、その関係をより実りのあるものに変えていくことを促すという、利点があると思われます。
そういえば、たしか、神田橋條治はドクターショッピングを奨励していたような記憶があります。

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2005年5月13日 (金)

気づくこと

最近気づいたのですが…。

カウンセリングでは気づきを大切にします。でも、最近気づいたのですが、私たちが何かに気づいたと感じたとき、その気づいたこと(気づいた内容)は、もう既に気づいていたことなのです。もう既に自分のどこかで知っていたことが、はっきりと意識される体験が気づきなのではないかと思います。つまり、私たちはうすうすは気づいていたことにしか気づけないということです。

未だに気づかれずにいる、大量の気づきの種子が私の無意識には蓄えられている…かもしれない。
そういうふうに想像してみることは、なんとなく楽しい。

気づきは大切なものです。でも、気づくことだけを大切にするのではなく、無意識に蓄えられた気づきの種子も大切
にしたい。

うすうすは分かっていたけど、最近はっきり気づいたことでした。
でも、こんなこと、当たり前ですか、もしかして…。

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子どもの幸せ

 スクールカウンセラーは結局は何を目指しているかと考えると、大げさかもしれませんが「子どもの幸せ」を願っていると言えると思います。「子どもの幸せ」について考えると、子どもの人間関係について言えば、その子の人生の中に既に登場している人たちとの関係の中で愛されたり、理解されたり、受け止めてもらったりすることが子どもの一番の幸せかなと思っています。どこからかやってきて後から登場した人が、その子を理解したり、受け止めたりするのは、その子の人生に既に登場している人たちがそうするよりも、その子の幸せへの貢献は少ないと思います。
 そういう意味で、スクールカウンセラーは、あまり出番がないと言っても過言ではないと思っています。スクールカウンセラーが、子どもたちに直接関わりカウンセリングを行うことよりも、子どもに日常的に関わっている先生方とのコンサルテーションや、子どもの家族との相談が非常に大切に思えます。
 もちろん、子ども自身がスクールカウンセラーの関わりを求めている場合には、間違いなくスクールカウンセラーの出番でしょう。しかし、それでもなお、私自身は誰かの代役として子どもから呼ばれているんだという気分を忘れないようにしています。私が、その子どもにとって重要な人物になるのではなく、既にいる重要な人物との関係がうまくいくことが大切だと考えています。

 ところで、「灰色のたぬきの戯言」さんや「晴れのちトキドキ曇り。。。」さんで、学校の先生方との関わりについてカウンセリングかコンサルテーションかという議論がありました。この問題についても、やはり、焦点は「子どもの幸せ」にあると、私は思うのです。先生方へのカウンセリングは、直接的に「子どもの幸せ」を願って行われるものではありません。カウンセリングを受ける人自身(この場合は先生)の利益につながるものです。「子どもの幸せ」には間接的につながっていくものです。従って、スクールカウンセラーの活動としては、先生方へのカウンセリングの優先順位は低いものとなると思います。スクールカウンセラーの勤務時間は非常に限られていて、援助ニーズが大きい子どもへの援助(優先順位が高いと思われます)でさえ、充分な時間をとっておこなうことができない現状があります。従って先生方へのカウンセリングは、現実問題として行えないと思います。
 ただし、子どもについて話し合い(コンサルテーション)をしていると、先生方自身が、ご自分の人生を振り返り、ご自身について語られることもあります。その場合には、私は、一通りは話を聞かせていただきます。でも、一区切りついたところで、「先生ご自身の歴史があるから、○○君に対しては、××ということなんですね。」などと、先生の話を受けつつ子どもの話の方へ焦点をあてます。めったにないことですが、それでも、ご自身の歴史を振り返ったり、カウンセリングを求めてこられる場合には、専門機関でのカウンセリングをお勧めしています。

 スクールカウンセラーとしては、「子どもの幸せ」のために国や県から雇われ、税金からお給料をいただいているのだと思っています。

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「心のケア」をめぐって

「心のケア」という言葉はどうもしっくりきません。もちろん重大な危機に直面した人たちの心身の健康を支えること自体には異論はありません。ただ「心のケア」という言葉の使い方に違和感があります。儀助さんのところにも同じような文章が書いてあったので、理由を考えていました。一つ思い当たりましたので書いてみます。
「心のケア」ではなく、ケアという言葉を使って別の表現を考えてみます。まず、「トラウマのケア」という表現はどうでしょうか。トラウマという言葉自体に少し抵抗があるのですが、私には、「心のケア」という言い方よりは抵抗感が少なくなります。「心の傷のケア」という表現も「トラウマのケア」と似たような感じです。
「○○でショックを受けた気持ちへのケア」というと私にはもっと抵抗感が少なくなります。この言い方であれば、私は概ね受け入れられます。ここから分かるのは、部分的・限定的な表現をするほど、私にとっては「~のケア」という言葉に対する抵抗が減るということです。
 そこから、もう少し想像してみました。私たちの心の中には、自分で自分自身を支えていこうとする心の働きがあります。「心のケア」という表現をすると、そこまでひっくるめて「ケア」しますよ、といわれているように感じるのです。自分で自分自身を支えようとする心の働きは、そういう「ケア」に対して、「お前のケアなんかいらんわ!」と言っているようです。
 私たちが、カウンセリングを行ったり、人を援助したりするときには、相手の人の心の中にある自分で自分を支えていこうとする心の働きから、きちんと認めてもらったり、了解してもらったりすることが大切なのです。その上で、相手の心にある自分を支えていこうとする働きが、もっと上手く機能するように手伝わせてもらうのが私たちの仕事だと思います。こういうことが、治療同盟と言われていることだと私は考えています。

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2005年5月12日 (木)

時間を守ること

「研修」という記事を書いているときに思い出したのですが、3月の末に、日本臨床心理士資格認定協会の主催する心の健康会議に参加してきました。会議といっても、シンポジウムで、それを聞いてきのですが、やはり、出かける前は、おっくうでした。出かけて、話を聞いてみると、色々考えたり、学んだりすることはそれなりにありました。最も印象的だったのは、河合隼雄の話がうまいことです(河合隼雄は私にとっては活字の世界の人です。村上春樹とかそういう人たちと同じです。ので、「さん」とか「先生」とかいう敬称を付けるのしっくりきません。)。きちんと持ち時間の間に、それなりに奥行きのある内容を、分かりやすく話すところには感服しました。最後に、コメントを求められたときも、ごく短くコンパクトに内容のある話をされていました。やはり、臨床家の姿勢としては、面接でなくとも、時間を守るというのが、非常に重要だと思うのですが、その点でも、抜きんでていました。

ところで、スクールカウンセラーの勤務時間は週に8時間というのがほとんどだと思います。でも、どうやら多くのスクールカウンセラーが、求められる勤務時間を超えて働いているようです。私は、これには少しというか非常に違和感があります。面接の時間を厳守することと全く同じではないにしても、やはり時間を守ることは私は重要だと思うのです。

私は自分がきちんとした仕事ができていないと思うときに、面接でも勤務時間でも時間を延長したくなります。私の罪悪感や無力感を減少させるために、時間を延長したくなってくるように感じます。あえて、言葉にすれば、こんなに努力しているのだから、役に立たなくても許してねという感じでしょうか。そこで時間を延長してしまうことは、長い目で見ると私の仕事の質を少しずつ(もしかして、急激に?)低下させていくはずだと思います。なので、私は、できるだけ、時間を延長してサービスしたいという気持ちに打ち勝ち、時間を厳守するようにしているのです
が…。

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研修

臨床心理士でもあり、学校心理士でもあるので、資格更新のためにも(もちろんそれだけのためではありませんが)「研修」を受けていかなくてはなりません。

しかし、最近、「研修」を受けることに対する意欲が非常に低下してきたのを感じます。いろいろと考えてみると「研修」が私のニーズに必ずしも応えてくれないからのように思います。

特に最近思うようになってきたのは、カウンセリングを受けたいということです。教育分析でも、純粋なカウンセリングでもどちらでもいいのですが…。以前は特に感じなかったことです。この変化がどこから来るのか、何を示唆しているのか、何かが分かってくる・気づくのが楽しみです。

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2005年5月11日 (水)

対話について考えてみる

儀助さんのブログにリフレクションと共鳴という記事が書かれていました。それを読んで、ちょっと考えたりしたことがありました。

そこには、具体例として
クライエント:「悲しんでいてもしょうがないと思うんです」
カウンセラー:「悲しんでいてもしょうがないと思われているですね」
スーバーバイザー:「悲しんでいてもしょうがないと思う部分と、悲しくてしょうがない部分があるんですね」

という例が書かれていました。「フォーカシング指向心理療法」からの引用だそうです。
私はこの本は(この本も!)読んではいないのですが、私ならどう言うかちょっと私なりに考えてみました。
私がいつもどんなふうにやっているかということを思い起こして、その雰囲気をもとに感じてみます。
そして、できればどんなふうにやりたいかということも感じてみたいと思います。

私なら、きっと「悲しんでいてもしょうがない」という言葉をクライエントが言ったような雰囲気で繰り返して言います。そして、その雰囲気を味わいます。その言葉を受けて、もしかしたら、クライエントは、悲しんでいてもしょうがないということについて、話してくれるかもしれません。それをきちんと聞かせてもらいたいと思います。その上で、「悲しんでいてもしょうがないっていうことですよねぇ…。…。そうやってみることで、根っこにある悲しいっていう気持ちは…。」と言いながら相手の雰囲気を感じようとします。そして、相手の雰囲気に合わせて語尾を「少しは良い方向へ…?」とか「…」のままとか、変えられたらいいなと思います。それに応えて、もしかしたら、悲しい気持ちをクライエントは話してくれるかも知れません。もちろん、「基本的には、変わらない」という応えが来るかもしれません。そこに、自分で自分を支えていこうとする決意のような強い気持ちを感じます。もしかしたら、私は、そのことを、言ってみるかもしれません。

また、もし、しっかりと関係ができていて、二人で対話している雰囲気が確かな状態であれば、いきなり「ああ…。根っこには、悲しい気持ちがね…。ありますよね。」と言うかもしれません。それに応えてクライエントが話をしてくれるかもしれません。そして、その後で、「悲しんでいてもしょうがないともおっしゃっていましたね。」と私から言うかもしれません。

ここまで書いてきて気が付いたのですが、スーパーバイザーが「悲しんでいてもしょうがないと思う部分と、悲しくてしょうがない部分があるんですね」とコメントしたのが、どうも私には、気になるのです。1つは、文章・あるいは音として、やや相手に入りにくいような気がします。もう一つは、妙に説明的です。そして、もう一つが私にとっては、最も重大な点ですが…。もし、私がクライエントなら、こういうふうに言われると非常に苦しい感じがします。問題の焦点は、スーパーバイザーが言うとおりなのですが、それをあまりに直接言われると、その言葉はずっしりと重く私にのしかかり、私は苦しくなるような気がします。悲しみをかかえている自分と、それをなんとか乗り越えようとして(もがいて)いる自分の2つの姿を同時に見せられるわけです。それは、やはり、苦しい、気がします。

スーパーバイザーの示した理解は非常に大切な点だと思います。その理解を、相手(クライエント)の役に立つように、どのように対話の中に生かしていくかが、重要でしょう。ここに数限りない、工夫の余地があるような気がします。
ここに書いたことは、その瞬間には、そのようになるかどうか全く予想がつかないことです。でも、机上の空論であっても、こんなふうに考えてみることが大切だと思います。対話のまさにその瞬間には、クライエントに待ってもらうわけにはいかないのです。

こうやって考えてみることは、実は、私がクライエントであり、私がカウンセラーでありという世界です。つまり、私と私の対話です。そこに、大きな限界があります。でも、もしかしたら、大きな可能性があるのかもしれません(楽観的すぎるか)。

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2005年5月 9日 (月)

ハエが多い

勤務していた学校の1つは非常にハエが多いのです。

職員室には、なんと天井からハエとりリボンです。

相談室にもハエさんはやってきます。でも、相談中に、ハエにブンブン飛び回られると非常に、うっとうしくて、気が散って、はっきり言って相談どころじゃありません。

殺虫スプレーあまり好きではなく、ここ数年使っていません。やはり、人体への影響とか気になりますし…。それで、ハエを退治するのは、もっぱらアルコールスプレーを使っています。キッチンの除菌などに使うやつです。ハエに近づいてハエがしっとり濡れるぐらいスプレーすると、ハエは飛べなくなります。それを、ティッシュでつまんで、ゴミ箱に捨てるわけです。

殺虫スプレーを使うよりも、ハエが飛べなくなるのが早いように感じます。私には、こちらの方が手っ取り早いのです。

これからの季節は、相談者が来る前に相談室に行って、きちんとハエを退治しておくところから仕事が始まります。

つまらない、話でした。

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