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2005年4月12日 (火)

老いていくこと

朝日新聞で、若年性のアルツハイマーに関する記事が連載されている。読むたびに切ない気持ちをかき立てられる。

ずいぶん前のことになるが、詩人の谷川俊太郎が、高齢者のグループホームを訪れているドキュメンタリー番組を見た。そこに、入所している高齢者の方々は、既に痴呆の症状がある程度進んでいて、スタッフを自分の子どもと間違えていたり、いろいろと記憶が混乱したりしている様子であった。

一般に、痴呆の高齢者とのやり取りは、堂々巡りであったり、急に過去に戻ってしまったりすることがあり、私には、話が通じない・訳が分からないように感じられるものだった。私が他の誰かと間違えられたり、私のことを忘れてしまったり、私が言ったことがきちんとわかってもらえなかったり、そういったことは、痴呆の高齢者との会話では、非常に生じがちであるが、(少なくとも)私には、強い不快感を感じさせるものだった。そういったこともあって、私は自分は痴呆にはなりたくないという気持ちをずっと抱き続けていた。

しかし、その番組を見ていて、自分が老いていき、さらには、痴呆になるかもしれないということを、少しだけ受け入れることができたように感じた。つまり、そこのグループホームのスタッフや、谷川俊太郎と、入所者とのやり取りをみていて、私なりに、ある一つの発見をしたのだった。そこで見た痴呆の老人の言葉は、一種の詩であり、夢であった。痴呆の老人の言葉には、論理的な整合性や合理性はほとんどない。しかし、相手の雰囲気・その場の雰囲気を感じ、そして、それに呼応して言葉が生まれてきている。

詩に、論理的合理的な辻褄を求めることは非常にもったいない。詩は味わい・感じ・楽しむものだ。夢に、論理的合理的な筋道を求めることは非常にもったいない。夢は味わい・感じ・楽しむものだ。そこには、論理性・合理性では計れない価値がある。

私の尊敬する 神田橋條治 はこう書いていた。

「六十年の人生を振り返ってみても、大切な部分はコトバや写真で残されず、ただ雰囲気の記憶として味わっているときだけが、歪みが少ないようです。精神療法のたいせつな部分もまた、雰囲気としか言いえないようです。いまのわたくしは、コトバの論理の部分を受け取り論理を返す段階、は卒業したものの、まだ、コトバが運んでくるイメージを感知して、コトバを使ってイメージを送り込む、という対話の段階にいます。残された人生は、雰囲気を受け取り、雰囲気を返すという対話の技術の錬磨、に使いたいと思っています。六十年を振り返り、人生での触れあいが、総じて、感謝の雰囲気を帯びるようになってきていることが嬉しく感じられています。」

(「対話精神療法の初心者への手引き」あとがきより)

おそらく、詩を語り、夢を語るボケ老人になるには、無意識の豊かさが必要になるだろう。そのために、いまから出来ることは、たくさんあると感じている。そう考えていくと、私は、自分がボケ老人になっていくことが、少しだけ楽しみになってきた。

認知症というコトバが、ボケや痴呆というコトバの替わりに使われているようです。ボケや痴呆というコトバの響きには否定的な印象を持つ人が多いためなのかもしれません。認知症というコトバは、歴史や文脈から断絶して現れてきたように感じます。そのためもあって、否定的な印象が少ないのでしょう。反対に、ボケや痴呆というコトバは、それなりの歴史や文脈を持っているのです。身近に老人と接してきた人にとっては、ボケや痴呆というコトバは、愛憎入り交じった気分を呼び起こすのかもしれません。しかし、愛憎入り交じった気分というのが、人に関わっていくということの本質ではないかと、私は感じています。

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