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2005年4月

2005年4月28日 (木)

初仕事

4月の中頃ですが、新しく勤務を始めた学校で相談室を開きました。
学校ではなかなか良い場所はもらえないことが多いのです。スクールカウンセラーの都合や考えを優先するわけにはいかないでしょう。スクールカウンセラーのために学校があるわけではないので、それがごく当たり前のことだと思います。今回の相談室は、まあ、ベストではないにしても、悪くない部屋です。

でも、校舎自体が少し古いので、いくつか気になることがありました。
一つは、カビくさいということです。まあ、換気に注意してやっていくしかないでしょう。
もう一つは、ドアを開け閉めするときに、非常にうるさいということです。木と木が激しくぶつかる音と、中にはめてある薄いガラスが振動してたてる音が原因のようです。ドアにはクッションのようなものは一切付いていないので、余計に音が激しくなるようです。

そこで、最初の仕事は、このドアを何とかすることにしました。まず、消しゴムを薄く切って、ドアがぶつかる部分の上と下と中央に貼り付けました。最初は、貼り付けたものが厚すぎて、ドアが上手く閉まらなくなりました。そこで、カッターで削って調整しました。これで、かなり音が小さくなりました。
でも、ガラスが振動してぶつかるときに出る「ガシャン」という感じの音は、ほとんど変わりません。ガラスとそれをはめてある枠に隙間があって、それが原因のようです。そこで、ガラスと枠の隙間に詰め物をすることにしました。透明ビニールのゴミをゴミ箱から拾ってきて、細長く切りました。そして、それを、4重にたたんで、テレホンカードを使ってその隙間に詰め込んでみました。見た目には、ほとんど目立ちません。しかも、ガラスが振動するときに出る音は、非常に小さくなったのです。

初仕事は、無事に成功しました。めでたしめでたしです。

こんなつまらないことが初仕事かと驚く方もいらっしゃるでしょうか?

私は、相談室の環境整備は非常に重要な仕事だと思っています。やはり、来談者ができるだけ落ち着いて話ができる環境を整えることはカウンセラーの仕事だと思います。できれば、最初の来談者が来る前に、ある程度の環境を整えておきたいところです。

それは人にはなかなか任せられないのです。自分で納得がいくかどうか、試行錯誤的にやってみて色々考えるからです。スクールカウンセラーの窓口をやってくれる先生などが、細かく気を配ってくれて「何でも言ってください」とおっしゃっていただけます。だから、任せたら良いではないかという考えもあるでしょう。でも、ドアの音が出ないようになどということに対する私の要求は非常に細かく高い水準で要求しています。それに他人をつきあわせることも大変ですし、つきあってもらっても、相手がうんざりするのではないかと思います。

というわけで、私は相談室の環境整備は非常に重要な仕事だと思っています。そして、ほとんどの場合自分でやります。

2005年4月16日 (土)

国家資格に関する記事

毎日新聞に、医療心理師と臨床心理士の国家資格に関連した記事が掲載されました。

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20050416k0000m010158000c.html

色々な業界団体の綱引きが噂されていますが、私はそれにはうんざりです。

根本的には、利用者にとって最も利益の多い形で国家資格化がなされることが大切だと思います。

もし、医療心理師のみの国家資格化がなされた場合、教育分野であるスクールカウンセラーといえども医療心理師の有資格者が優先されかねないと言われています。それが、利用者の利益につながるのか疑問です。

医療領域で働く心理職も、教育領域で働く心理職も、その他の領域で働く心理職も、その専門性の基盤はかなり共通しています。2つの国家資格ができてしまうのもおかしいことだと言えます。

私は、領域に限定した資格化がなされるのではなく、包括的・横断的な資格化が理想だと思います。包括的・横断的な資格の上に、分野を限定する特記事項をもうけるなどした資格が理想でしょう。しかし、日本の現状では、管轄省庁をまたぐような包括的・横断的な資格はかなり難しいといわれています。

多くの心理臨床関係のブログで熱い論争が繰り広げられています。

心理臨床家nobuのつぶやきBlog

ロテ職人の臨床心理学的Blog

などがあります。

私の所属している臨床心理士会の主張は

http://www.jsccp.jp/ippan/osirase/20050407kokkasikakunimukete.html

ここに掲載されています。

2005年4月14日 (木)

「確かな」ということ

 仕事で子どもと関わったりしていると、ちょっとしたことで相手を不安に陥れてしまうことがあります。例えば、(高機能)広汎性発達障害の子どもと関わるときに、多くの人は、つい習慣で「ちょっと待って」などと言うことがあると思います。実は、この「ちょっと」がくせ者で、「ちょっと」というニュアンスが発達障害を持つ子どもにはなかなか伝わりにくいようです。かなり強い不安に陥れてしまったり、こちらが期待しているようには待ってもらえず、ちょっとしたトラブルに陥れてしまったりすることがあります。でも、よく考えてみると、それは、誰にでもごく当たり前に理解できることなのです。「ちょっと」が30分なのか、5分なのかということは、その場の雰囲気で何となくつかんでいるものですが、よくよく考えてみるとはっきりとは分かっていないものです。

 私の仕事は、主として言葉でやりとりして相手に関わっていくのですが、言葉というものは目に見えず形もなく、言葉を伝えている音としての声もその場ですぐに消えてしまうものです。形のあるもの、形として残るものを通して関わっていく場合には、「確か」という感覚が得られやすいと思います。言葉を使って関わる場合、「確かな」感覚を相手との間にどのように共有していくかということが非常に重要だと感じています。

 こういったことは、いまの仕事をするようになってから、自分なりに考えてきたことです。ある時気づいたのですが、いまから10年ぐらい前に、バックで駐車する車を車外から誘導したときに、私なりに見つけた工夫が、上で述べたような問題意識とつながっていたのです。車外から車を誘導するときには、意外に、運転手との意志の疎通がうまくいかないものです。単純なことなのですが、壁や障害物まであとどのくらいの距離があるのかを、運転手まで伝えるのに苦労するのです。多くの場合は、「あとちょっと」とか、「もう少し」、「もうほんの少し」などと運転手に声をかけることが多いように思います。しかし、これが非常に問題なのです。車外で誘導している人の伝えたいイメージ(距離感)が、なかなか正確に運転手まで伝わらないのです。運転している人は、「確かな」距離感を持てずにバックをすることになります。

 そこで、ちょっとした工夫があります。「あとちょっと」などという代わりに、「あと1メートル」と、はっきりと数字を言うようにするのです。正確な距離が分からないから、○○メートルなどとは、言いにくいと思われるでしょうか? 実は、ここで伝える数字は、正確な数字でなくてもかまわないのです(できるだけ正確であることは構いません)。あと○○メートルと伝えられた運転手は、「あとちょっと」と言われるよりは、遙かに「確かな」距離のイメージを頭の中に描くことができます。そして、誘導する人は、車が移動するにつれて、できるだけ正確な割合で、残りの距離を伝えていきます。つまり、最初に残り1メートルと伝えたら、半分来た時点で、残り50センチと伝えるわけです。このような方法をとると、運転手は「確かな」イメージを頭の中に描きながら、不安が少なく車を駐車することができます。

 話は戻りますが、生徒を待たせなくてはならない時には、車の誘導と同じように、はっきりと数字を使って、「○○分待ってて下さい」と伝えることが大切になります。私の印象では、「2~3分待って」よりも、少し時間は長くなるのですが「5分待って」とはっきり時間と特定して伝えた方が、不安を助長しないようです。数字というものは「5」は「5」であって、「6」でも「7」でもなく、非常に「確かな」感覚をもたらすのです。話は広がってしまいますが、痛みの感覚というのは、非常に「確かな」感覚です。自傷行為などは、「確かな」何かを得るために行われていると考えてみることもできます。

 話は変わって、また、子育てネタですが…。ちょっとした応用問題です。ある日、娘(4才)をほんの少しだけの時間ですが、1人で留守番させたことがありました。初めての留守番でした。娘はちょうどテレビを見ていましたが、私が「ちょっと出かけてくるから、1人で留守番をしてくれないか」と頼んだところ、不安そうな様子でこちらにやってきました。その時私は、娘の頭の中に「確かな」イメージがないため、不安になっているのだと気づきました。しかしまだ娘は、4才で時計の見方や時間の感覚がよく分かっていません。従って、上に紹介したような「5分待っててね」という方法は単純には、使えないわけです。そこで、ちょっとした工夫をしました。「今見ているテレビ番組が(番組名をはっきり言いました)終わる前に帰ってくるよ」と伝えました。すると娘は少し安心して(と私は思いましたが)テレビを見に部屋に戻っていきました。テレビ番組は、実際にはまだ30分近く残っていて、子どもが一人で待つには長すぎるぐらいの時間でした。でも、「確かな」イメージが持てたということと(時間の感覚がよく分かっていないこともあって)、安心して待てたのだと思います。(実際には、10分足らずで帰ってきました。)

2005年4月13日 (水)

初めてあくびが伝染する日

子育てネタばかりですが

「あくびがうつる」という文を以前に書きました。下に、コピーします。

不思議に思っている事ですが、ある人があくびをすると、近くにいる人がその直後にあくびをする事があります。あくびが伝染するわけです。人間同士だけではなくて、人間と動物の間でもこの現象は起きるようです。
例えば、犬を飼っているひとは、犬があくびをすると、その犬のあくびがうつってしまうということもあるようです。その逆は、あまり無いかと想像しますが、どうでしょうか? 飼い主との絆や信頼関係が強い犬だと、もしかしたら、飼い主のあくびがうつるのかもしれないとも思います。
さて、私の上の子どもは、相互にあくびがうつるようになりました。実は、いつあくびがうつるようになるか、最初にあくびがうつった時をきちんと見ておきたいと思っていました。でも、いつのまにかあくびがうつるようになってしまい、無理でした。ちょっと残念です。
下の子は、まだ1歳にならないので、今度こそ、いつあくびがうつるようになるのか楽しみにしていたいと思います。   2002/11/04 Mon

上の文を書いてから、しばらくして、2004年の7月に、なんと、きちんとした研究の記事を新聞で見かけました。つい最近思い出して検索してみると見つかりました。日本の研究者の研究だったんですね。HOPEという壮大なプロジェクトの一貫だったようです。

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/index-j.html

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/hope2004-4j.html

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/hope/pub/img/yomiuri20040724.html

この記事によれば

  1. チンパンジーもあくびが伝染
  2. 人間の場合でも、5才以下の子どもには、あくびは伝染しない
  3. あくびの伝染は他者に共感する能力と関連があるかもしれない

ということです。

始歩や初語ばかりが子どもの成長の証ではないんですね。初めてあくびが伝染した日は、子どもの人生の一大通過点かもしれません(笑)。子どもの「初あくび伝染」を親としてきちんと見届けたいものです。下の子はまだ2才ですので、できれば、ビデオにでも!?

「夢をみたよ」

2才の子が「パパの夢を見たよ」等ということがあります。

これが、私には、非常に不思議なのです。

例えば、ライオンであれば、実物は見たことがなくても、絵本で見て、「これはライオンだよ」と教えることができます。しかし、夢は、夢を見ているときにそばにいて、これは夢だよと教えてあげることはできません。

なぜ、寝ている間に見たものが、起きている間に見たものと区別してこれは、夢だと分かるのでしょうか? 謎です。

2005年4月12日 (火)

ころんで学ぶ心理療法

ころんで学ぶ心理療法―初心者のための逆転移入門

著者の遠藤裕乃さんは、私と同年代の臨床心理士のようです(面識はありません)。心理療法やカウンセリングの初心者が、実践場面で頻繁に出会う問題を分かりやすく解説してくれています。しかも、具体的にどのように考え、難しい局面を切り開いていくかについて書かれています。私も初心者の時に、こんな本を読みたかったと強く思いました。もちろん今読んでも、非常に勉強になりました。

子どものみた夢

今朝子ども(2歳)が起きてきたとき、

「パパの夢見たねぇ」となんとなく嬉しそうに同意を求めてきました。

私は「そうだねぇ」と同意しました。

その朝見た夢は覚えていませんでしたが、もしかしたら、一緒の夢を見たのかな

と想像すると、ちょっとした幸せです。

老いていくこと

朝日新聞で、若年性のアルツハイマーに関する記事が連載されている。読むたびに切ない気持ちをかき立てられる。

ずいぶん前のことになるが、詩人の谷川俊太郎が、高齢者のグループホームを訪れているドキュメンタリー番組を見た。そこに、入所している高齢者の方々は、既に痴呆の症状がある程度進んでいて、スタッフを自分の子どもと間違えていたり、いろいろと記憶が混乱したりしている様子であった。

一般に、痴呆の高齢者とのやり取りは、堂々巡りであったり、急に過去に戻ってしまったりすることがあり、私には、話が通じない・訳が分からないように感じられるものだった。私が他の誰かと間違えられたり、私のことを忘れてしまったり、私が言ったことがきちんとわかってもらえなかったり、そういったことは、痴呆の高齢者との会話では、非常に生じがちであるが、(少なくとも)私には、強い不快感を感じさせるものだった。そういったこともあって、私は自分は痴呆にはなりたくないという気持ちをずっと抱き続けていた。

しかし、その番組を見ていて、自分が老いていき、さらには、痴呆になるかもしれないということを、少しだけ受け入れることができたように感じた。つまり、そこのグループホームのスタッフや、谷川俊太郎と、入所者とのやり取りをみていて、私なりに、ある一つの発見をしたのだった。そこで見た痴呆の老人の言葉は、一種の詩であり、夢であった。痴呆の老人の言葉には、論理的な整合性や合理性はほとんどない。しかし、相手の雰囲気・その場の雰囲気を感じ、そして、それに呼応して言葉が生まれてきている。

詩に、論理的合理的な辻褄を求めることは非常にもったいない。詩は味わい・感じ・楽しむものだ。夢に、論理的合理的な筋道を求めることは非常にもったいない。夢は味わい・感じ・楽しむものだ。そこには、論理性・合理性では計れない価値がある。

私の尊敬する 神田橋條治 はこう書いていた。

「六十年の人生を振り返ってみても、大切な部分はコトバや写真で残されず、ただ雰囲気の記憶として味わっているときだけが、歪みが少ないようです。精神療法のたいせつな部分もまた、雰囲気としか言いえないようです。いまのわたくしは、コトバの論理の部分を受け取り論理を返す段階、は卒業したものの、まだ、コトバが運んでくるイメージを感知して、コトバを使ってイメージを送り込む、という対話の段階にいます。残された人生は、雰囲気を受け取り、雰囲気を返すという対話の技術の錬磨、に使いたいと思っています。六十年を振り返り、人生での触れあいが、総じて、感謝の雰囲気を帯びるようになってきていることが嬉しく感じられています。」

(「対話精神療法の初心者への手引き」あとがきより)

おそらく、詩を語り、夢を語るボケ老人になるには、無意識の豊かさが必要になるだろう。そのために、いまから出来ることは、たくさんあると感じている。そう考えていくと、私は、自分がボケ老人になっていくことが、少しだけ楽しみになってきた。

認知症というコトバが、ボケや痴呆というコトバの替わりに使われているようです。ボケや痴呆というコトバの響きには否定的な印象を持つ人が多いためなのかもしれません。認知症というコトバは、歴史や文脈から断絶して現れてきたように感じます。そのためもあって、否定的な印象が少ないのでしょう。反対に、ボケや痴呆というコトバは、それなりの歴史や文脈を持っているのです。身近に老人と接してきた人にとっては、ボケや痴呆というコトバは、愛憎入り交じった気分を呼び起こすのかもしれません。しかし、愛憎入り交じった気分というのが、人に関わっていくということの本質ではないかと、私は感じています。

グインの言葉

「グインサーガ」(栗本薫著)が100巻達成されました。

栗本薫著 グイン・サーガ第83巻
 「嵐の獅子たち」p46~47より

ときには俺は敵をも信じる。敵の知性を信じられるときにはそれを信じる。敵の計算づくを信じられるときにはそれを信じる。信じるというのは、なにも何から何まで相手がおのれに都合よくしかふるまわないだろうと考えることではない、それは信頼ではなくておのれの傲慢というものだ。信じるというのは、おのれの相手を見る目の正しさをたのむことだ。その目が正しければ、俺はなにも失望せずにすむ。 -俺はいまだかつて、なにものかに失望させられたことはないと思っている。

それにしても、グインってかっこいい

2005年4月11日 (月)

陰陽師 昔の記事です

陰陽師
岡野玲子作(夢枕貘原作)
の「陰陽師」という漫画がブームになっている。陰陽師というタイトルからは、陰陽道の呪法を使って悪鬼・悪霊を退治するストーリーを想い描きがちである。しかし、この漫画に登場する陰陽師、安倍晴明はかなり異なっている。悪鬼や悪霊の霊的なパワーに、陰陽道の呪法のパワーで立ち向かっていくのではない。彼らのやむにやまれぬ事情や心情を理解し、そしてそれらの「思い」をとかしていこうとしている。晴明は言うのである、「知らぬのか、優しい言葉ほどよく効く呪はないぞ」と。また、「鬼に対して必要なことは、畏れでも敬いでもなく、正しい理解だよ」とも語っている。

この物語を現代の視点で捉えると、悪鬼や悪霊の行いは、心理的な症状や問題行動に相当すると考えられる。また、この世に残ってしまった思いは、心の奥に潜む心的外傷(トラウマ)に相当すると言える。そこから、現代に求められるカウンセラー像を、晴明のようなあり方に求めるといった考え方も見受けられる。晴明は、現代のスーパーヒーラー(治療者)であるといったところであろうか。

この物語りには、もう一人の重要な人物が登場してくる。源博雅である。私は、博雅の存在の大きさを指摘したい。晴明と博雅は2人で1人の治療者といえるのである。晴明は、自分自身の歴史の中で、トラウマを背負って生きてきた。そのことが、彼の冷たく鋭い印象につながっている。そして、晴明はどこか斜に構え生きている。反対に、博雅は「天然ボケ」である。情に厚く涙もろい、しかも悪霊の呪にも、うかうかとはまってしまう。また、管弦のセンスは非常に秀でたものをもっていて、鬼の吹く笛の音に涙を流して感動してしまう。

好対照であるこの2人の存在は、心理臨床家の2つの側面が人格化して表現されているように思われる。つまり、2人で1人である。「参与しつつの観察」という言葉があるのだが、参与する(コミットする)という側面を博雅が担い、観察する(少し引いて客観的に眺める)という側面を晴明が担っていると考えることができるだろう。その意味で、晴明は「欠けたる治療者」である。

また、晴明も博雅も、悪鬼や悪霊つまり、「症状」を尊重し大切に関わっていることが、非常に示唆に富んでいる。博雅は、鬼の吹く笛の音に感動し、涙ぐんだりもしている。また、晴明は、死体にとりついた悪霊を消し去ってしまうのではなく、琵琶(楽器)にとりつかせることによって、悪霊と人間を共存させている。つまり、症状や問題行動を忌み嫌い、なくしてしまおうというスタンスではなく、症状や問題行動をもった人間を全体として理解し支えていこうという、スタンスである。晴明は、その表面的に見える冷たさとはまた違った、暖かさを内側に秘めている。そして、その温かさは、どちらかと言えば、人間に向けられるよりは、鬼に向けられているように感じられる。

漫画のストーリーが進むと、晴明は、博雅との共同作業の中で次第に成長して、本物のスーパーヒーラーになりつつある。晴明の行いは、非常に深遠で私の理解の及ぶ範囲を遙かに超えてしまった。未熟なカウンセラーである私は、治療者としては癖の多すぎる頃の晴明にたいして、親しみやあこがれの気持を感じてしまう。
2001.8.26

ブログを開設

ブログを開設することにしました。

あるスクールカウンセラーのつぶやき

というページだったのですが、順次こちらのブログへ引っ越してきたいと思います。

子どもの下痢

ここ3日ほど、子ども(2歳)が下痢になって、一日に何度もおむつを換えている。

病院でもらった薬が乳酸菌の薬で、また、市販の乳酸菌の薬も飲ませているせいか、

ウンチが酸っぱい臭いです。

赤ちゃんの頃のウンチの臭いを思い出して、少し懐かしい気分になりました。

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